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英紙ガーディアン【評論】核推進派が握った南オーストラリア州の王立委員会

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南オーストラリア州の確信的な核推進派が諮問委員会を握った。無料の宣伝を許してはならない。


デイヴ・スィーニ― Dave Sweeney



核王立委員会は、南オーストラリア州の貧弱な未来、核ロビー、気候変動にまつわる懸念に対応している。委員会は独立していなければならない。

アデレードの北方500キロ、BHPビリトンのオリンピック・ダム鉱山、世界最大のウラニウム鉱床のうえに世界最大の鉱業会社が居座っている。Photograph: AAP


2015210

南オーストラリア州における核産業に踏み込んだ今週の王立委員会の発表は国中に危険と驚きをもたらした。


南オーストラリア州の政治家の多くは、原子力の経済的魅力に夢中になった。何といっても、世界最大の鉱業会社は、アデレード北方500キロのBHPブリトン社オリンピック・ダム鉱山の世界最大のウラニウム鉱床のうえに居座っているのだ。だが、ウラニウム濃縮、国内の原子力、国際放射性廃棄物に門戸を開く会合に踏み込めば、放射能論議の深刻な拡大を招く。


この動きは、国内および世界の核産業の状況に関連した昨今の動向とまったく対照的である。


2011年に福島原発の炉心がメルトダウンした結果、原子力は社会の支持を失った。日本では50基余りの原子炉が休止して動かず、ドイツでは保守派の政治家らが2022年までに原子力発電を終わらせる責任を率先して担っている。米国で業界は息絶え絶えであり、フランスでさえ、原子力が同国の電力部門に占めるシェアーを今後10年のあいだに25パーセント引き下げる見通しである。中国、そしてそれより少し劣るがインドだけは、原子力推進派天国の明るい材料のままであるが、その両国においてさえ、再生可能エネルギー拡大計画に挑まれたり蝕まれたりしている。


身近な話題をいえば、ウラニウム市場はフクシマ発の経済的フォールアウトによって痛撃をこうむっている。フクシマのメルトダウンの当時、オーストラリア原産のウラニウム燃料が201110月に福島原発に装填されることが確定していたことを考えると、これも当然である。それ以来、価格と生産量の両面で歯止めなしの下落がつづいている。2014年、オーストラリア産ウラニウムの生産量と輸出額は過去16年間の最低を記録し、BHPは先月末、オリンピック・ダム鉱山の雇用数をさらに300人削減すると発表した。

昨今は核産業が難局にあるご時勢であり――王立委員会が原子力施策をさらに前進させる選択をするのに適時ではない。


南オーストラリア州経済は、かねてからのオリンピック・ダム鉱山の250億ドル拡張計画の棚上げ、自動車産業の雇用喪失、大規模な国防契約の海外移転といった産業撤退の三重苦による厳しく不透明な状況に見舞われている。この不安定さのさなか、確信的な描く推進派の息の長いロビー活動が拠り所を見つけている。


南オーストラリア原子力システムズ株式会社という企業が、南オーストラリア州政府と連邦政府に対して、国内の原子力推進を阻む重要な法的・政治的障壁を取り払うようにロビー活動をつづけてきた。このロビイスト集団は、ニュース・インターナショナルの前理事長、ブルース・ハンダートマークに率いられ、老練のアメリカ人核擁護・熱弁家、リチャード・チェリー、南オーストラリア州のベヴァリー・ウラニウム鉱山を経営する秘密主義のゼネラル・アトミクス元取締役にして首相および内閣府の前首席補佐官、イアン・コワリック、原発ムラ旅行者の群れの安息所、アデレード大学のトム・ウィグレイ、スティーヴン・リンカーン両教授が顔を揃えていた。


この動きに加えて、世界の放射性廃棄物を保管すれば、金になると繰り返し喧伝されている。世界原子力協会の幹部たちが、ボブ・ホーク元首相、ワーレン・マンディーン[元労働党党首、アボット内閣の先住民族諮問委員会委員長]、その他と一緒になって、危険標識を隠しながら、ドル札の話をわめきたてている。彼らのやり方は、南オーストラリア州民、とりわけ南オーストラリア先住民族の、国土における放射性廃棄物投棄に反対する粘り強く上首尾な運動を無視している。


現在の核推進の動きには、もうひとつの理由として――半ば茶番で、半ば真摯、人類の存続がかかった課題のひとつに対する反応そのものとして――気候変動がある。一部の人たちが気候危機の潜在的な解消策として核に飛びつく――絶望的な時代が絶望的な手段を求めると思う――理由は、理解できる。低炭素エネルギーの未来へと移行する必要性は明白だが、そのための方策は、それ自体が人類存続に対する脅威になり、再生可能エネルギー部門から不可欠な資源を奪う高コスト、高リスクのエネルギー・システム、核を採用するのが最善ではない。


南オーストラリア州は再生可能エネルギーの多くの分野で全国を先導している。この州は、高価値のソーラー、風力、地熱資源に恵まれている。再生可能エネルギー部門が世界最速で成長するエネルギー市場であり、すでに連日、世界の危険な原子炉の群れよりも多くの電力を生産しているとき、物議をかもし、汚染をもたらす核産業に乏しい資金と資源をつぎ込むのは、知恵が足りない話しである。


それらをすべてひっくるめて、わたしたちは発足まもない王立委員会と政治、それが生みだす結果の位置づけに向きあうことになる。発議権を、資源が注ぎこまれ過ぎで、実績が乏しすぎる核産業の推進基盤にすることを許さないのが肝要である。世界の核取引におけるオーストラリアの関与の国内的・国際的影響と意味を検証する必要がある。国連事務総長は20119月、継続中のフクシマ核危機を受けて、オーストラリア政府に対し、ウラニウム採掘の人間健康および環境に対する影響の真摯な分析を要請した――オーストラリア政府とウラニウム生産者をあげて、わざと無視した勧告である。


いかなる王立委員会も、証拠にもとづき、厳密で独立している必要がある。委員会は明確で包括的な権限を付与され、誇張が多い将来の約束を検証する前に、過去の遺産と現在の実績に向き合わなければならない。この条件を満たさなければ、業界に対する社会的認証が縮小しつづけ、原子と同じく社会を分裂させる憂き目を見るだろう。


【関連記事】




太平洋を越えた南北交流 @japanfocus フクシマ、ヒロシマ、ナガサキ、そしてマラリンガ

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アジア太平洋ジャーナル/ジャパン・フォーカス

アジア太平洋…そして世界を形成する諸勢力の批判的深層分析
アジア太平洋ジャーナル Vol. 13, Issue 6, No. 5, 2015216

太平洋を越えた南北交流
フクシマ、ヒロシマ、ナガサキ、そしてマラリンガ
ヴェラ・マッキー Vera Mackie

【要約】

本稿では、東日本の福島で複合災害が発生した20113月以後、オーストラリア東部で開催された一連の祈念行事について解説する。地域行事に出席したり参画したりした人たちが、経験によって会得した国境を超える連帯を表明したのである。わたしたちは、これらのイベントを思い返すと、日本とオーストラリアの絡みあい重なり合った歴史、そしてさまざまな人たちと集団が原子力と核兵器の世界規模ネットワークのなかに置かれている様相を思い起こすのだ。

【キーワード】

日本、オーストラリア、記念・祈念、社会運動、災害、原子力、核
Japan, Australia, Commemoration, Social Movements, Disasters, Atomic Energy, Nuclear Power

【本文】

20113

2011311日の複合災害は、世界の人びとが注視するなかで進行した1。携帯電話で撮影され、フェイスブック、ツイッターなどのソーシャル・メディアで拡散されたり、従来型のメディアとインターネットで再放送されたりした映像のおかげで、世界中の人びとが地震と津波がもたらした惨状を目撃した。世界のどこにいても、国営放送のNHKや映像配信サイトのニコニコ動画で事態の進展を見守ることができた。CNNがただちに派遣した数名の特派員たちは、途切れなく報道を流した。オーストラリア放送協会の東京通信員もまた、事態を総合的に伝えてくれた2

新しいソーシャル・メディアのおかげで、20113月の複合災害にまつわるデモ、コンサート、祈念式典、記念日行事もまた世界の視聴者に伝わった。人びとは世界のさまざまな場所で――災害発生の直後に、またその後の重要な記念日に――祈念や哀悼のために集まった。本稿では、オーストラリアで催された一連の祈念行事を描くことによって、災害とその余波の国境を超えた諸側面を考察する3。国境を超えた関係性に関する論議の多くは、「仮想的」な――ソーシャル・メディアを用いた、明らかに身体的でないつながりの――側面に注目しているが、筆者は行事や儀式の身体的な側面を無視すべきではないと考える。新しいショーシャル・メディアが、公の場における集会に取って代わったわけではない。むしろ、ヴァーチャルな通信と公の場における行動は互いに補完しあう。人びとが共通の思いを表現するために公の場に集うとき、連帯が結ばれる。以下に論じるように、特定の行事を極小レベルで分析すれば、国境を超えたつながりと連帯が結ばれるプロセスに分け入る洞察を得ることができる。そのためには、これらの行事の詳細で「濃密な描写4」が欠かせない。

地震とその余波、津波と核危機の複合災害が突発した2011311日、筆者は日本から遠く離れていた。それでも、テレビ、ラジオ、ソーシャル・メディアのおかげで、即座に災害に気づいた。オーストラリアと日本の時差がさほど離れていないので、即時性がさらに生々しく伝わった5Eメール、フェイスブック、共通の友人が伝達したメッセージによって、日本にいる友人と連絡を取ることができた。同時に、東京にいる筆者の友人たちが、鉄道の運行停止のため、立ち往生の憂き目にあったり、徒歩で帰宅したりしなければならなかった体験をEメールで伝えてきた。余震があり、Eメールの途中で「あ!揺れてる」とか「また揺れてる」とつぶやかれることも多かった。その後の何か月か、これらのことばがフェイスブック記事に繰り返し書き込まれた。

地震が襲ったのは、おおむね日本の北東部とその周辺海域だったが、津波の影響は、ハワイ、フィリピン、太平洋島嶼諸国、南北アメリカ太平洋沿岸におよび、港湾や沿岸住宅地に被害をもたらした。オーストラリアの沿岸でさえ、被害をもたらすほどでなかったものの、潮位の上昇を観測できた6。何年たっても、瓦礫が太平洋の対岸に打ち上げられたという報道を目にする7。ごく微量のプルトニウムも海の向こう側で検出された8。核燃料メルトダウン、爆発、汚染水漏れの影響は、日本の国土とその沿岸海域の境界で封じ込められるものではない。地震と津波がもたらした被害に加えて、風と海流が放射能汚染を日本の国境を超えて遠くまで運ぶ。

危機は世界のメディアとソーシャル・メディアを通して、(多くの人には間接的であったとしても)世界の人びとが経験したという意味で国境を超えていた。――筆者と同じく――ソーシャル・メディアと従来型メディアを共に駆使して、津波がもたらした惨状を目撃した。米国では調査によって、国民の60パーセントに迫る人たちが20113月のあいだに事態の動きを追っていたことが明らかになった9。これはまた、世界に共感、同情、連帯があふれる機会になった。スレイター、ニシムラ、カインドストランドが、災害にまつわる通信を促進した新しいソーシャル・メディアに関連して指摘するように、「かつて個人的で私的、内輪的でさえあった極小の社会性の領域と考えられていたものが、世界中の他の人びとに届くオルタナティヴ[非主流]政治に関与するようになった」10

この情緒的な反応に、赤十字などの従来型慈善団体、日本財団などの組織の海外支局、海外の非政府組織(NGO)、CNNなどの報道機関ウェブサイトのリンクによるチャリティ運動が続いた。米国では、赤十字がスーパー・ボール(プロフットボールの王者決定戦。毎年恒例、視聴率最高の一大スポーツ・イベント)の期間中、東北救援運動に対する献金を募集する宣伝をした11。日本赤十字は20122月、45億米ドルを被災自治体に送金し、そのうち40億米ドルは(海外の赤十字協会を除く)海外篤志家の献金だったと発表した12

国際的に人道主義にもとづく関心が集まったのに加えて、核エネルギーに反対する国際運動――半世紀を超えて蓄積した直接行動――もまた高揚した13。原発反対運動が活発になると、日本のさまざまなデモに参加できなかった筆者らは、ソーシャル・メディアで提供されるリンクによって、遠くから見守っていた。日本の友たちと連帯するデモや記念集会は、ニューヨーク、パリ、オーストラリア各地など、世界のさまざまな場所でも開催された14。子どもたちの安全について心配を表明する英語版ビデオをYouTubeで配信した「福島の母親たち」など、日本の活動家たちは国際社会の支持者らにますます訴えかけるようになった15。理解するための参照基準も国際的であり、旧ソ連のチェルノブイリ核災害、米国のスリーマイル・アイランド原発事故、インドのボパール化学汚染事故、米国のハリケーン・カトリーナ、ヒロシマ・ナガサキ原爆投下の日本の経験も比較のために参照された16。このリストは、核時代の実相を告げると世界的に即座に認識される地名を連ねている17。反核運動は2012年の夏のあいだ、しばらく「あじさい革命」と呼びならわされ、同時に進行したアラブの春、オキュパイ・ムーヴメント、チュニジアの「ジャスミン革命」と相互リンクしていた18

311」複合災害はまた、海外の日本人社会とその支援者たちを活性化した。災害の恐ろしいニュースが届くやいなや、オーストラリア全国の州首都、地域の中核都市でヴィジル(夜間祈祷集会)が催された。たとえば、メルボルンでは2011317日、中心街の旧中央郵便局ビルの入り口踏み段でヴィジルが執り行われた。ステップは巨大な折り鶴の群れとロウソクの列で飾られた。その後3月には、各年の記念日に祈念行事が開催されてきた。フクシマの核放射能の問題とヒロシマ・ナガサキのそれが密接に結びついているので、フクシマは8月のヒロシマの日とナガサキの日を迎えるごとに思い起こされる。いまでは3月と8月の行事が毎年恒例リズムを生みだしている。それぞれの行事ごとに、これら歴史的事件の関連がますます詳細・精緻に検討されている。ヒロシマとナガサキは常に再考され、反復効果を得てきたが、いまではフクシマのプリズムを通して検討されている。これらの行事を主催する団体は、シンボルと実践のレパートリーを蓄積し、下記に示すように、それを行事から行事へと年ごとに繰り越している。

20113月、メルボルンにて、フクシマのためのヴィジルで飾られた折り鶴の群れ。写真: Kaz Preston.19

20123

災害1年後の2012311日、筆者はメルボルンのヴィクトリア州立図書館のステップに立ち、太鼓演奏の残響を感じていた。周囲に、地震、津波、核メルトダウンの複合による被害の1周年祈念をするために集まった群衆がいた。

メルボルン中心街にある州立図書館の前の芝生は、普段からデモや行進の集合場所に使われている。ステップのある空間は、集会場や競技場の感じがある。この日、作業トラックが路上に停められ、荷台が発言者や演者のステージに使われていた。台の上に、マイクやアンプ、積み上げられた太鼓が所狭しとばかりに置かれていた。州立図書館の向かい側は、元は「バブル時代」に日本資本で建てられた、メルボルン・セントラルという名のショッピング・センターである。以前には、日本の百貨店、大丸の支店が入っていたが、バブル経済が破裂したあと、閉店してしまった。州立図書館とショッピング・センターのあいだの通りは――路面電車、自転車、歩行者の通行だけが許される――遊歩道である。デモ行動の場所をビジネス・ショッピング街の中心部に決めることによって、異種の都会活動のあいだで自由な交流が容易に生まれることになる。ショッピングや図書館調べを喜んで中断し、祈念集会とデモに参加する人もいるだろう。他にも、周囲の通りからや、数分ごとにガタガタ行き来する路面電車の窓越しに見つめるだけの人たちがいる。

子どもたちがうろつきまわり、集まった人たちに仮面を配る。その仮面は、核放射能を表す国際標識とエドヴァルド・ムンク(18631944年)の1893年作品『叫び』を真似た顔を組み合わせた合成画像を黄色と黒色で描いたものである20。この黒と黄色の放射能標識の変種は、世界各地のデモでも目玉になっている。これらの標識画像はもともと、放射能の危険を特定の言語を超えた形で警告するためにデザインされたものである。それを応用して、シンボルを新しい形に作りなおすことが、国境を超えた直接行動の視覚言語を形づくるのに役に立ってきた。あるデモ参加者は、ソーラー電力――原子力と化石燃料の代替エネルギー――のシンボル、巨大ひまわりの扮装をまとっていた。原子力の邪悪さを象徴する「赤鬼」の扮装をした子どもたちがいた。折り鶴を掲げる人たちがいた。

20123月、メルボルンの祈念集会、デモ参加者。撮影:Tim Wright.21

群衆全体を調べたわけではないが、筆者の印象としては、集会に参加していた群衆には、日系の長期にわたる移住者と居住者、大学関係者、学生、ワーキング・ホリデー滞在者、ツーリスト、日本に関わりのあるオーストラリア人、反核運動に関与するオーストラリア人、報道関係者が入り交じっていた。オーストラリア産のウラニウムが日本の原発の核燃料になっているので、何人かの話者とデモ参加者が災害とオーストラリアの関わりを指摘した22。何人かのデモ参加者は「オーストラリアのウラニウムがフクシマの燃料になった」と書かれたプラカードを掲げ、オーストラリアと日本の経済相互間の重なり合いによる、わが国民自身のこれらの事態との関わりをオーストラリア人観衆に思い起こさせた。参加者の一部はその後、鉱山を運営するBHPビルトン、リオ・ティント両社の本社ビルの外で抗議するために行進した23

行進、プラカード、仮面、扮装は、連帯の体現だった。参加者らはまた、さまざまな地点でスローガンを求められた。彼らは日本語で「ゲンパツハンタイ」をおぼえ、太鼓打ちたちはスローガンの音節ごとにリズムを刻んだ。日本語スローガンは、日本語を話すUストリーム閲覧者に対する明確なメッセージだった。英語だが、「ウラニウム掘るか?すぐ止めろ!」という問答や「フクシマ!繰り返すな!」という連呼もあった。共にスローガンを唱えたり、行進したりするといった協調行動を経験することによって、少なくともデモのあいだ、個々の人びとは集合体の一部になる感覚を味わうことになる24

デモ行動の主催者は地域NGO「平和を求める日本人」であり、平和主義、環境問題、反核運動、アボリジニ自己決定権問題に献身する他の地域団体と協力していた25。たいがいの発言者は、オーストラリアにおける、このような公の場での行事では当然のこととして、自分たちが立っている土地の支配人が先住アボリジニ――クニン・ネーションのウウルンジェリ人――であることを認識していた。他の発言者には緑の党や核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)オーストラリア支部の人たちがいた。遠隔地の先住民族共同体がメッセージを寄せ、それが民族語と英語の両方で放送された。福島の反核団体のメッセージも英語の翻訳で読みあげられた。プログラムの区切りに太鼓演奏が披露された。行進の準備のために、トラックの装飾を整えるあいだ、日本のグループ、フライング・ダッチマンのCD『ヒューマン・エラー』がトラックのスピーカーから大音響で再生された。参加者のうち、少数の人たちが日本語の反核歌詞を追うことができただけかもしれないが、その彼らは音楽にこめられた詩的な大言壮語のナマのパンク・エネルギーに反応していた26

図書館の踏み段のうえ、筆者の前で報道記者がビデオ・カメラを覗きこみ、日本のテレビ局にレポートを送信していた。会場の至るところに、カメラ、ビデオ・カメラ、携帯電話カメラがあった。人びとは自分用の記録のため、Uストリーム、YouTube、フェイスブック、ブログ、あるいは自分の団体のウェブサイトに投稿するために写真やビデオを撮影していた。祈念集会とデモは生で配信され、世界中どこでも、関心のある人はだれでも視聴できた。Uストリーム・ビデオは、日本語を話す閲覧者のために、時おり説明を入れたり、主として英語のスピーチを通訳したりする日本語音声が重ねられた。つまり、新しいソーシャル・メディアのおかげで、リズミカルなフィードバックの連環を作りだせるようになったのである。メルボルンやその他の都市の人びとがソーシャル・メディアによって日本の反核運動の前進を追いながら、自分たち自身の活動を日本の友人たちと同志たちに放送してもいる。

20133

1年後の20133月、2周年のころ、災害の被災者たちが体験を語るためにオーストラリアを巡回した。そのツアーは「フクシマに向かい合う」と呼ばれ、その主催者は(地球の友オーストラリア、戦争防止医師会議、ICANが協力して結成された)「非核の選択」という団体だった。それぞれの州で、地域の団体が行事の準備に協力した。ツアー・グループはいくつかの州都を巡回したほか、キャンベラとアボリジニ・テント大使館とノザーン・テリトリーのレンジャー・ウラニウム鉱山を訪問し、そこで地域先住民共同体の人々に会った。
「フクシマに向かい合うオーストラリア・ツアー20133915日」案内ハガキ27

筆者はシドニー会場に出席し、フクシマ惨事で直に被災した人びとの証言を聞いた。飯舘村の農民、長谷川健一さんは彼の体験を証言した。ピースボート代表、川崎哲(あきら)さんが話した。シドニーの南、イラワラ地域の先住民共同体の代表の話も聞いた。松岡智広さんは通訳を務めるとともに、メルボルンの平和を求める日本人を代表して話した。「フクシマに向かい合う」発言者たちのプログラムに加えて、演奏や写真展も催されていた。この行事のポスターの背景色は、真紅である。中央に黒い円が筆書きされ、右下に白い折り鶴があしらわれている。世話役たちと支援者たちは行事の準備段階で、祈念のために千羽鶴を折ってもいた。折り紙は、フクシマ関連行事の祈念の重要な要素になった。折り鶴が、1950年代に白血病で亡くなったヒロシマの少女、佐々木禎子(さだこ)の物語と結びつけられているのは、よく知られている。ヒロシマに原爆が投下されたとき、幼女だった彼女は爆心地から1キロしか離れていない場所にいた。禎子は最期の入院時、千羽鶴を折りあげた人の願いがかなうという言い伝えがあったので、千羽の折り鶴を折ろうとした。だが、千羽を折りあげないうちに、彼女は亡くなり、残りを家族が仕上げた28。折り紙の鶴はいま、平和と記念、反核の理念を表す国際的なシンボルになっている29。人びとが集って折り鶴を折り、それを紐で通してつなぎ、記念品としてプレゼントするとき、これは連帯を表明する具現的な行為となる。

「フクシマ2周年祈念祭」ポスター


20138

メルボルンの行事を主催した団体のひとつ、平和を求める日本人は、2005年(第二次世界大戦終結の60周年)に在メルボルン日本人社会の何人かが結成したグループである。彼らは第二次世界大戦中に日本とオーストラリアが敵対していたネガティブな記憶を乗り越えたいと願っていた。平和を求める日本人は、オーストラリアと日本、両国民の新しい関係を築くことに熱心だった30。彼らはこれまでの10年間、一連の地域社会行事を実施し、第二次世界大戦中の軍による強制売春、すなわち軍事性奴隷制、日本国憲法の「平和条項」(第9条)、核問題といった事柄に焦点を当ててきた。毎年8月には、ヒロシマ・ナガサキ原爆投下の記念として平和コンサートを開催している。これらの記念行事は2011年以降、ヒロシマ、ナガサキ、フクシマの問題をまとめ、同時に核産業、ウラニウム採掘、オーストラリアにおける核実験との関連を対象にしている。

20138月の平和コンサートは、コンサート、シンポジウムなど、さまざまな公開イベントの会場、ディーキン・エッジで開催された。これは、正しくメルボルン中心部のアート複合施設の一部である。人びとが常に集い、地域のお祭りやデモ集会に参加したり、大画面のスポーツ行事を観戦したりしている公共空間――連邦ひろば――を、芸術活動用の会場が取り囲んでいる。ディーキン・エッジは普通の会場と違って、ステージの背後がガラス張りになっている。コンサート・プログラムの進行中、ガラスの向こう側で他の活動がおこなわれていた。ボートを漕いだり、ジョッギングやサイクリングをしたり、散歩したり、アイスクリームをなめたり、弁当をひろげたり、結婚写真を撮ったりしている人たちを見ることができた。穏やかな週末の昼下がりの都会生活がコンサートの背景になっていた。

「ヒロシマ・ナガサキ平和コンサート2013年」ポスター31

連邦ひろばディーキン・エッジにて、「ヒロシマ・ナガサキ平和コンサート2013年」の出演者たち。ステージの背後のガラスを通して、ヤラ川とその岸辺を見ることができる。撮影:Vera Mackie.

過去10年間にわたるコンサートと行事の実績によって、構成要素のレパートリーが広がり、それが年から年へと繰り返され、応用されている。ポスターとチラシの画像は、鳩、平和マーク、追悼キャンドル、折り鶴、自然のイメージといった、わかりやすいシンボルが活用される。団体のロゴは、両手から放たれる折り鶴が描かれ、青空へ飛んでいく様子が、放たれた鳩のように平和を象徴している。 
平和を求める日本人のロゴ32

2013年のコンサート会場、ディーキン・エッジに入ると、場内はサイケデリックな色彩でいっぱいだった。シートの背もたれ毎に、ショッキング・ピンクかカナリア色、またはライム・グリーンの厚紙プラカードがかけられていた。それぞれのプラカードに、赤い平和マーク、それに折れたミサイルに見える白い造形があしらわれていた33。プラカードを作ったのは、地元の子どもたちと日本から訪れた子どもたちだった。ロゴは、行事主催団体のひとつ、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)のものである。コンサート・プログラムが進行するにつれ、これらのプラカードが単なる装飾を超えた意味を示していることが明らかになった。
メルボルン、ディーキン・エッジにて、核兵器廃絶ロゴのプラカード。撮影:Vera Mackie.

ICAN代表、ティム・ライトが話したとき、彼は参加者たちにそれぞれのシートのプラカードを手に取り、頭上に掲げるように促した。この行為には、それより前の行事でデモ参加者たちがプラカードを掲げたのと同じように、200人かそこらの観客仲間たちとそれぞれの人が共同して行動することによって、連帯を表明するという意味があった。その時まで、シートに座り、発言や演奏を受け身で聞いていた人たちの集団が、いま行動の中心になったのだ。カメラマンたちは一面にライム・グリーン、カナリア色、ショッピング・ピンクであふれる写真を撮り、それをICANウェブサイトに投稿した34。このようなアクションはパフォーマンス・アートと共通点が多く、演者と観客の区別がぼやける。会場内の個々の人が、単なる見物人というより、イベントの欠かせない要素になる35

しかし、このアクションは、統合化された行動の連鎖の一環に過ぎなかった。プラカードそのものは、異なった国の子どもたちの結束を図る作業として、地元と日本から来た子どもたちの手で作られた。シドニーで行われた20133月の2周年行事の時のように、折り紙が儀式の一部で使われた。地元の学校生徒の代表が、日本から訪れた広島ジュニア・マリンバ・アンサンブルの団員に千羽鶴を贈呈した。プラカードと同じように、この単純な儀式の背後に、地元の子どもたちが鶴を折り、紐を通して束ねるのに費やした時間があった。このようにして、コンサートに臨席した数百の人びとを超えた地元の地域社会に、連帯の絆が届けられた。

これらの行事のもうひとつの目玉が、日本のパフォーマンス・アートを演じる出場者を巻き込むことである。過去のイベントでは、琴、尺八、太鼓の演奏者たちがそうだった。オーストラリアには太鼓打ちの団体が数多くある。彼らは、日本人社会が加わる地域社会の行事、多文化共生と多様性を祝うイベント、あるいは主だった日本関連の学術会議の開会式で度々実演している。これを、日本から伝来した文化活動を地域社会に適用し、組み入れる「グロカリゼーション」[地球的な視野をもって、地域で実践すること]の一例として見ることができるだろう。太鼓演奏は、いまでは平和を求める日本人のデモ集会とコンサート恒例の呼び物になっている。これはまったく地域化された適用である。太鼓は日本では、政治的なデモ集会というより、町や村のお祭りやお祝いの付き物になっている36。和太鼓りんどう集団は、2013年コンサートの主役を演じた。

演説でメッセージを送るよりも、コンサートそのものが音楽とパフォーマンスで連帯が表現されるように構成されていた。ティム・コステロ(国際開発機関、ワールド・ヴィジョンCEO)、ティム・ライト(ICANオーストラリ支部長)、平和を求める日本人の共同創始者、カズヨ・プレストン、司会のマット・クロスビーとサラ・ミナミカワが非常に短いスピーチをした。たとえば、地域の室内音楽アンサンブルであるオーケストラ21、オーストラリアン・パーカッション学院、和太鼓りんどう、広島ジュニア・マリンバ・アンサンブルを並べることによって、プログラム進行が意味をもたらした。これら異なった国ぐにの異種の音楽とパーカッションは、多様性の具体的な表現になった。だから、異なった人びとがセッションして、協力と連帯を演じたのである。

連邦ひろばディーキン・エッジにて、「ヒロシマ・ナガサキ平和コンサート2013年」で共演する「和太鼓りんどう」と広島ジュニア・マリンバ・アンサンブル。撮影:Vera Mackie.

コンサートの見どころのひとつが、広島ジュニア・マリンバ・アンサンブルによる演目の数々だった。この合奏団は、浅田三恵子によって1991年に広島で結成された。アンサンブルの団員は全員、小学校の学齢期であるように思え、マリンバ(木琴に似たパーカッション楽器の一種)、マラカス、ドラム、ホイッスルを尋常でないエネルギーで演奏する。一行は広島から来たので、反核と平和の問題によく馴染む。これが、地元の子どもたちが彼らに千羽鶴を贈った理由である。彼らの音楽は多くの点で、国際化を伴うことが多い異種複合的な形で演奏される祝祭的なものである。日本の子どもたちの集団がラテンアメリカン・スタイルの音楽を演奏し、日本、中国、あるいはヨーロッパのメロディをこのスタイルに乗せる。だが、ある演目で、彼らは日本とオーストラリアの旗を振りかざす。これはもちろん、オーストラリア人の観客を喜ばせる振る舞いだが、国家の象徴を用いるのはイベント全体の流れにそぐわなかった。それでも観客は、なんとも言えない若いエネルギーの虜になった。アンサンブルはパーカッション楽器を演奏しただけでなく、ステージを駆け回って飛び跳ね、中国の獅子舞を演じ、観客が手拍子を打つなか、客席の端から端まで走った37

プログラムにはまた、先駆的な先住民ロックバンド“No Fixed Address”[「住所不定」]のリーダーとして知られるオーストラリア先住民アーティスト、バート・ウィロビーの演目もあった38 先住民問題について、発言はなかった。むしろ、ウィロビーの存在が、先住民族の関心事は妥当なものであるという認知、そして先住民族の政治活動において音楽が重要であるという認識を発信していた。アボリジニ系オーストラリア人は1950年代、英国がオーストラリア中部のマラリンガで核実験を実施したとき、放射能で被災した。オーストラリア産ウラニウムは、多国籍鉱山企業に運営されているものの、アボリジニの土地で採掘されている39。広島ジュニア・マリンバ・アンサンブル、地元オーストラリアの合奏団、メルボルンで活動する和太鼓りんどう、バート・ウィロビーが集ったコンサートは、ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ、マラリンガの被ばく者たち相互のつながりが認められていたことを目に見える形で証していた。オーストラリア・日本両国の経済は、先住民の土地の所有権奪取と先住民所有地で採掘された資源の売買で利潤をあげている。これら異なった集団が共に集い、登場したコンサートはまた、核サイクルのさまざまな局面における個人や団体間のこうした不平等関係を反省する機会にもなったのかもしれない。

終わりに

フクシマ複合災害以降の歳月、世界のさまざまな場所で、さまざまな祈念イベントが開催されてきた。筆者は本稿において、オーストラリア東部の行事、主としてメルボルンの街で行われたイベントを中心に報告した。これらの行事は既存の手法とシンボルを一揃い駆使しながら、新しい手法と新しい演出法を開発し、共感、連帯、つながりの思いを形に現した。こうしたイベントは多くの場合、分類化を拒み、祈念、デモ、政治的な行動主義、また時には祝祭といった、さまざまな要素をブレンドする。

悲しみ、不安、怒りといった個人個人の思いは、プラカードを準備し、折り鶴を折って、紐を通して束ね、デモでプラカードを掲げて進み、訪問者に千羽鶴を贈呈し、街路を行進し、スローガンを呼びかけ応答し、音楽のリズムに乗せて拍手し、あるいはカラフルな反核プラカードが一塊になる集合写真を撮るために集まるなど、幅広い具体的な活動によって、連帯感の共同表現に結集する。

これらのイベントで使われる絵柄もまた、既存のシンボルを引用して描かれているものの、時に応じて新たなシンボルを創造し、新しい意味を付与する。平和マークは1950年代英国で、特定の反核行事のためにデザインされたロゴとして登場したが、国境を超えた平和主義のシンボルになった。放射能マークは、いまでもそれとして理解されるが、そのわかりやすさそのもののおかげで、いと簡単にパロディ版が作成されて、反核メッセージを表すのに用いられる。折り鶴は日本の民芸からヒロシマ被爆を特定的に連想させるものに転位し、折り鶴は世界各地で、ヒロシマの苦しみに共感と連帯を寄せる意思表示として採用されてきた。折り鶴はいま、少なくともオーストラリアで、フクシマの苦しみに共感と連帯を表明するために採用されている。ヴィジュアルな印刷物のなかには、折り鶴が白鳩の代わりに平和の特性を表しているものがある。

フクシマの複合災害を記念する行事はまた、ヒロシマとナガサキの原爆投下も引き合いに出す。キャッチフレーズ「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ」に代えて、わたしたちはいま「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・フクシマ」と発声する40。これらの地名のそれぞれがいま、これらすべてを表している。これらの記念行事が繰り返される毎に、これらのイベントと場所のつながりが補強される。わたしたちがヒロシマを思い出すとき、いまわたしたちはフクシマのプリズムを通してヒロシマを思い出すのであり、わたしたちが巻き込まれている核サイクルに対する新たな理解につながるのだ。

本稿で描写した行事はそれぞれ、メルボルン市街(および他の主要都市)あちこちの主要地点で開催された。ネットワークで結びついた活動家たちと地域団体のどちらかと言えば小さな集団の関心事は、このようにして都会の街路で印象を刻みこんだのである。これらの記念行事は、多くの参加者や観客にとって、同じ場所で開かれた他のデモ集会、ヴィジル、イベントの記憶と重なる。じっさい、それが実体化した記憶となり、街路を行進したり、スローガンの呼びかけ応答を叫んだりする毎に再活性化する。

オースストラリア特有の事情により、これらの記念行事にアボリジニ系オースストラリア人が参加すれば、世界規模の核サイクルにおける、わたしたちの位置づけを思い起こすことになる。日本とオーストラリアの両国経済は、ウラニウム、その他の鉱物資源の輸出入を通して一体化している。両国の歴史は、紛争の過去と海外移住の動きの現在を通じて一体化している。核実験、原子力発電、核兵器の歴史は、ネヴァダのマンハッタン計画、ヒロシマ・ナガサキの原爆投下、太平洋とオーストラリア奥地の核実験、オーストラリア奥地のウラニウム採掘、最近のフクシマの悲劇を結びつける。祈念儀式を繰り返すことによって、悲劇的な事件の記憶は常に見直される。

ヒロシマを繰り返すな。

ナガサキを繰り返すな。

フクシマを繰り返すな。

マラリンガを繰り返すな。

【推奨されるクレジット表記】

Vera Mackie, "Fukushima, Hiroshima, Nagasaki,Maralinga ( フクシマ、ヒロシマ、ナガサキ、そしてマラリンガ)", The Asia-Pacific Journal, Vol. 13, Issue 6, No. 5, February 16, 2015. 原子力発電_原爆の子「

太平洋を越えた南北交流
【筆者】

ヴェラ・マッキー(Vera Mackie)は、ウロンゴング大学法律・人文・芸術学部のアジア研究主任教授、人権研究フォーラムの研究主事を兼任。The Routledge Handbook of Sexuality Studies in East Asia [『ラウトリッジ社ハンドブック:東アジアにおけるセクシュアリティ研究』](2015年)を(マーク・マクレランドと)共著、Gender, Nation and State in Modern Japan[『現代日本のジェンダー、国民、国家』](ラウトリッジ2014年)を(アンドレア・ジャーマー、ウルリケ・ウオアと)共編。

【脚注】

1 本稿は、オーストラリア研究評議会出資プログラム「人権から人間の安全保障へ:アジア太平洋地域における不平等に対処するためのパラダイムの変化」(FT0992328)の一部として完成された研究にもとづいている。筆者は、カズヨ・プレストンおよびティム・ライトに写真とポスターの再録許可をいただき、両氏に感謝を表明する。ロウラ・ヘレン(アジア太平洋ジャーナル:ジャパン・フォーカス編集者)、筆者の共編者、アレクサンダー・ブラウン、ならびにジャーナル査読者のみなさんにも、初期の草稿に建設的な評言をいただき、感謝する。

2 Mark Willacy, Fukushima: Japan’s Tsunami and the Inside Story of the Nuclear Meltdown, Sydney, Pan Macmillan Australia, 2013.

3 See also: Vera Mackie, “Reflections: The Rhythms of Internationalisation in Post-Disaster Japan”, in Jeremy Breaden, Stacey Steele and Carolyn Stevens (eds.),Internationalising Japan: Discourse and Practice, London, Routledge, 2014, pp. 195–206.

4 Clifford Geertz, The Interpretation of Cultures, New York, Basic Books, pp. 3–30.

5 筆者は10年以上も前、メルボルンの自宅のテレビ画面で展開した2001911日(「911」)のできごとを見つめていた経験を思い起こしていた。「311」の略称が使われはじめると、これに「911」のさらなる残響が付与された。「911」から10年間で、新しいソーシャル・メディアが進歩し、情報拡散のスピードが大きく違うようになった。たとえば、破局的な事件の現場に既存メディアが到着する前に、個人がスマート・フォンを使って、写真やビデオを拡散する事ができるようになった。

6 Australian Government Bureau of Meteorology, “Tsunami Event Summary, Friday 11 March 2011”. Retrieved on 2 April 2014.

7 “Japan Tsunami Victim’s Soccer Ball Found in Alaska”San Francisco Chronicle, 23 April 2012. Retrieved on 25 July 2012; “Workers Cut Up Tsunami Dock on Oregon Beach”Japan Times, 3 August 2012. Retrieved on 4 August 2012.

8 Atsushi Fujioka, “Understanding the Ongoing Nuclear Disaster in Fukushima: A ‘Two-Headed Dragon’ Descends into the Earth’s Biosphere”The Asia-Pacific Journal, vol. 9, iss. 37, no. 3, 2011. Translated by Michael K. Bourdaghs. Retrieved on 25 July 2012.

9 Leslie M. Tkach-Kawasaki, “March 2011 On-Line: Comparing Japanese News Websites and International News Websites”, in Jeff Kingston (ed.), Natural Disaster and Nuclear Crisis in Japan: Response and Recovery after Japan’s 3/11, London, Routledge, 2012, pp. 109–23.

10 David H. Slater, Keiko Nishimura and Love Kindstrand, “Social Media, Information and Political Activism in Japan’s 3.11 Crisis”The Asia-Pacific Journal, vol. 24, no. 1, 2012. Retrieved on 24 July 2012.

11 Slater, Nishimura and Kindstrand, “Social Media, Information and Political Activism in Japan’s 3.11 Crisis”.

12 Jennifer Robertson, “From Uniqlo to NGOs: The Problematic ‘Culture of Giving’ in Inter-Disaster Japan”The Asia-Pacific Journal, vol. 10, no. 18, 2012. Retrieved on 27 July 2012.

13 20143月は、第5福竜丸事件の60周年にあたっており、フクシマ災害の3周年とほとんど時期が一致していた。福竜丸乗組員たちの被曝は、1950年代の国際的な核軍備廃絶運動の主要な動因になっていた。

14 John F. Morris, “Charity Concert, Paris, for Quake/Tsunami Victims”H-Japan Discussion List, 19 March 2011. Retrieved on 8 August 2012. Japan: Fissures in the Planetary Apparatus. 2012. Retrieved on 17 August 2012.

15 “Heartfelt appeal by Fukushima mothers”, 17 May 2011. Retrieved on 24 July 2012; Junko Horiuchi, “Moms rally around anti-nuke cause”Japan Times, 9 July 2011. Retrieved on 17 August 2012; David H. Slater, “Fukushima Women against Nuclear Power: Finding a Voice from Tohoku”The Asia-Pacific Journal. Retrieved on 17 August 2012.

16 See the essays by Brown, Kilpatrick and Stevens in this issue.

17 より正確に書けば、核時代はマンハッタン計画とネヴァダ砂漠の核実験で始まったのだが、即時に理解できるものといえば、「ヒロシマ」と「ナガサキ」の地名である。小田実は、“The Bomb”のタイトルで英訳されることになる小説『HIROSHIMA』を書き、太平洋とオーストラリア奥地の核実験を含む核時代の地球規模の側面を探究する先駆者のひとりになった。小田実『HIROSHIMA』講談社1981年。Oda Makoto, The Bomb, translated by D. Hugh Whittaker, Tokyo, Kodansha International, 1990. 本稿で論じるように、1950年代、英国がオーストラリア奥地で実施した原爆実験の影響で、先住民族系オーストラリア人と軍人が被曝した「マラリンガ」の地名もまた、このリストに書き加えられるべきである。

18 [英日対訳]マヌエル・ヤン「紫陽花革命」、Japan: Fissures in the Planetary Apparatus,2012. 2012813日閲覧。Slater, Nishimura and Kindstrand, “Social Media, Information and Political Activism in Japan’s 3.11 Crisis”.

20 See Alexander Brown’s discussion (in this issue) of ChimPom, who transformed a white flag successively into a Japanese national flag with a red circle, and then into a red version of the radioactivity symbol. ボストンのヴィジル告知ポスターに、放射能マークを顔に変形させたパロディがあしらわれている。201443日閲覧。

21 メルボルン311日行動写真集」。202442日閲覧。Uストリームvideoも参照のこと。201443日閲覧。

22 これは本稿の視野を超えているが、戦後日本の核産業の体制はまた、ゼネラル・エレクトリックなどの米国企業から助言を受けるなど、国際的な存在でもある。日本の核産業は近年、第三世界諸国における核産業の育成に関与している。Yuki Tanaka and Peter Kuznick, “Japan, the Atomic Bomb, and the ‘Peaceful Uses of Nuclear Power’”The Asia-Pacific Journal vol. 9, iss. 18, no. 1, 2011. Retrieved on 13 August 2012; Craig D. Nelson “The Energy of a Bright Tomorrow: The Rise of Nuclear Power in Japan”Origins vol. 4, no. 9, 2011. Retrieved on 17 August 2012; Philip Brasor, “Nuclear Policy was Once Sold by Japan’s media”,Japan Times, 22 May 2011. Retrieved on 17 August 2012.

23 オーストラリアは世界ウラニウム資源の推計31パーセントを有している。World Nuclear Association, “Australia’s Uranium”. 2008年末時点で、日本はオーストラリアのウラニウム輸出の23パーセントを購入していた。Clayton Utz,Uranium Mining Policy in Australia, Sydney, Clayton Utz, March 2013, p. 5. http://www.claytonutz.com.au/docs/Uranium_Mining_Policy.pdf. 201442日閲覧。東京電力はウラニウムの30パーセントをオーストラリアから購入している。オーストラリアは国際核産業市場でウラニウムの主要供給国でありながら、シドニー、ルーカス・ハイツの科学研究炉1基を別にして、原子力発電をしていない。1970年代のウラニウム輸出の決定は論争を巻き起こし、反核デモ隊が各地の州都の街路に繰り出し(筆者自身の学生のころの思い出のひとつ)、鉱区が設定された遠隔地の先住民地域に押し寄せた。See Brian Martin, “The Australian Anti-nuclear Movement”, Alternatives: Perspectives on Society and Environment, vol. 10, no. 4, 1982, pp. 26–35; Helen Hintjens, “Environmental Direct Action in Australia: The Case of the Jabiluka Mine”,Community Development Journal, vol. 4, no. 4, 2000, pp. 377–390; Alexander Brown,“Globalising Resistance to Radiation”Mutiny, 18 August 2012. Retrieved on 13 April 2014. 山内由理子・編『オーストラリア先住民と日本: 先住民学・交流・表象』所収、松岡智広「ウラン採掘地から福島へのオーストラリア先住民の眼差し」御茶の水書房2014pp. 165185

24 On the embodied dimensions of demonstrations see also: Vera Mackie, “Embodied Memories, Emotional Geographies: Nakamoto Takako’s Diary of the Anpo Struggle”,Japanese Studies, vol. 31, no. 3, 2011, pp. 319–331.

25 Japanese for Peace. “11 March Day of Action to End Uranium Mining: Fukushima One Year On”. Retrieved on 13 August 2012 . This organisation will be discussed further below.

26 ヒューマン・エラーの日英両国語の歌詞は、Human Error Paradeを参照のこと。201443日閲覧。



27 ポスターは、  201442日閲覧。
28 Eleanor Coerr, Sadako and the Thousand Paper Cranes, New York, Putnam, 1977.

29 折り鶴が連帯を表すために使われた一例として、河崎なつ(18891966年)が1955年にロザンヌで開催された国際民主女性連盟の世界母親会議に出席した後のソ連の旅の途上で、ラトビアの子どもたちに折り鶴を贈呈している写真を参照のこと。「日本の母、ソ連を行く」オール・ソ連、Vol. 2, No 1, 1956, p. 68. 日本女性の世界母親会議(第5福竜丸事件の後の年の主要テーマは核問題)出席については、Vera Mackie, “From Hiroshima to Lausanne: The World Congress of Mothers and the Hahaoya Taikai in the 1950s”, Women’s History Review印刷版を参照のこと。

30 平和を求める日本人 ‘About JfP’. Retrieved on 13 August 2012813日閲覧。名称と違って、この団体の関係者の全員が日本国籍または民族の者ではない。筆者は以前、彼らのセミナーで発言者として参画していた。だが、本稿執筆のためには、公開情報のみを引用した。

31 ポスターは、 201442日閲覧。

32 ロゴは、 201442日閲覧。

33 平和マーク(垂線で2分割され、斜線2本を加えた円)は、1958年の英国核軍縮キャンペーンのためにジェラルド・ホルトムがデザインした。垂線は手旗信号の“D”字であり、腕[“arms”=兵器]となる2本の斜線は手旗信号の“N”字。合わせて、“Nuclear Disarmament”[「核軍縮」]の頭文字になる。このマークはいま、平和運動と反核運動で広く使われている。Ken Kolsbun with Mike Sweeney, Peace: The Biography of a Symbol, Washington DC, National Geographic, 2008.

34 写真201442日閲覧。

35 オノ・ヨーコの1960年代のパフォーマンス作品にも、観客とパフォーマーの役割の同じような融合があり、これについては筆者の論考を参照のこと。彼女自身が、まったく抽象的なハプニングやパフォーマンス作品から、ジョン・レノンと共作の『平和のベッド・イン』や定番の『カット・ピース』など、より明確に政治的な意図をこめたハプニングに移行したのは、興味深いことである。Vera Mackie, “Instructing, Constructing, Deconstructing: The Embodied and Disembodied Performances of Yoko Ono”, in Roy Starrs (ed.), Rethinking Japanese Modernisms, Leiden, Global Oriental, 2012, pp. 490–501. オノ・ヨーコは、ICANウェブサイトで連帯メッセージを送るセレブのひとりである。リンクサイトを参照のこと。201445日閲覧。

36 On glocalisation, see: Anne Allison, Millennial Monsters: Japanese Toys and the Global Imagination, Berkeley, University of California Press, 2006, p. 281, n. 4. Ontaiko drumming as a global phenomenon, see Shawn Morgan Bender, Taiko Boom: Japanese Drumming in Place and Motion, Berkeley, University of California Press, 2012.

38 出演グループのサイト:Bart Willoughby Band Willoughby; Orchestra 21; Australian Percussion Academy; 和太鼓りんどう Wadaiko Rindo; 広島ジュニア・マリンバ・アンサンブル201444日閲覧。On “No Fixed Address” and the place of music in indigenous Australian politics, see Chris Gibson, “’We Sing Our Home, We Dance Our Land’: Indigenous Self-determination and Contemporary Geopolitics in Australian Popular Music”, Environment and Planning D: Society and Space, vol. 16, no. 2, pp. 163–184.

39 See: ICAN, Black Mist: The Impact of Nuclear Weapons in Australia, Carlton, ICAN, 2014. Retrieved on 5 April 2014.

40 See, for example, this blogger’s reflection on the first Hiroshima anniversary after Fukushima (that is, August 2011). Retrieved on 5 April 2013.

第4回「311原発いらない! 地球のつどい・福島」開催!

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2015年3月11

今年もまもなく311がやってきます。

原発いらない福島の女たちは今年も、「311原発いらない! 地球(いのち)のつどい」を開催します。今年の会場は福島市音楽堂です。みなさま、どうぞ会場へお越しください。一緒に福島の現状を知り、これからを考えませんか。

チラシのダウンロードはこちら ⇒ 地球のつどい2015311.pdf
【期日】2015311()


【会場】福島市音楽堂(福島市入江町11)





開場1030

「いのちのつどい」 開会1050 ⇒ 閉会1500


「デモ&県庁申し入れ」 スタート1515 ⇒ ゴール1630




いのちのつどい・プログラム

① 2014年 女たちのスライドショー

テーマ別報告

  午前の部:避難・健康

  午後の部:被曝労働、放射能汚染ゴミ問題、再稼働・脱原発

11451245 

い ぢょんみ ミニコンサート


李政美(い ぢょんみ) 東京葛飾区生まれの在日コリアン二世。
女たちの思いを伝える歌い手です。

いじょんみのホームページ ⇒ 李政美の世界



デモ&県庁への申し入れ

1510 福島市音楽堂前集合

1515 デモ出発、県庁申し入れ

1630 福島駅東口 デモ解散

    雨天決行、プラカード・鳴り物等各自準備、要放射能対策

共催 原発いらない福島の女たち&スリー・ノンの女たち

連絡先 080-4518-7368

同時開催、福島の脱原発運動ヒストリーがわかるかも。

「やいちゃんのたくさんのチラシ展」

ニューヨーク・タイムズ「沖縄、海兵隊基地ゲートで警備隊が抗議の市民3名を拘束」

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Interstitial New York Times
沖縄、海兵隊基地ゲートで警備隊が抗議の市民3名を拘束

マーティン・ファクラー MARTIN FACKLER 2015222

【東京】沖縄に駐留する米海兵隊の基地で始められた飛行場の建設に抗議する日曜日[22日]のデモ集会のさい、基地ゲートで抗議団の3名が警備隊に拘束されたと抗議団と地元メディアが伝えた。

琉球新報によれば、日本の南の島の人口密集地に立地する軍用機発着が煩雑な普天間飛行基地の移設先として日米両政府間で合意された、辺野古集落に近いキャンプ・シュワブの外に少なくとも2,000人のデモ参加者が結集した。1990年代に初めて提案された移設は、地元の反対のために遅れており、米国政府は不満を募らせている。

だが、戦後日本が庇護を頼る国、米国との絆緊密化を誓約する保守派の日本国首相、安倍晋三氏のもとで、ついに代替飛行場の建設が緒についたようである。V字型に2本の滑走路を建造するための用地を埋め立てる準備として、作業員らがキャンプ・シュワブ沖合にブイを設置したり、サンゴが覆う海底にボーリングしたりしはじめた。

昨年7月以来、抗議する人たちの小集団がゲートでデモ集会を開いており、時おり、工事車両の入門を阻止しようとして、警備隊や警官隊と衝突した。抗議側によれば、1月に抗議していた人の1名が警官隊に逮捕されたという。

日曜日の抗議行動は、これまでのキャンプ・シュワブ・ゲートで最大規模のものだったと地元メディアは伝えた。琉球新報、ならびにソーシャル・メディア経由で伝える複数の抗議者らによれば、デモ集会参加者の3名が基地を警備する日本人警備員らに拘束され、うち1名は後に解放された。

集会世話人を含め、残りの男性2名が日本側の警察に引き渡されたと同紙は伝えた。駐沖縄米国海兵隊の当局者にコメントを求めようとしたが、連絡が取れなかった。

抗議者たちは滑走路建設を妨害すると誓い、滑走路が自然のままのサンゴと、マナティと同類の海棲哺乳類、ジュゴンの生息域を破壊するという。広範な層の沖縄人が新滑走路に反対しており、その島における巨大な米軍の駐留が犯罪と汚染を引き起こしていると避難している。日本に駐留する米軍要員50,000名のうち、半数以上が沖縄に駐屯しており、同島は第二次世界大戦後の四半世紀、米国の施政権下に置かれていた。

日米両国の政府当局者らは、新しい飛行場を建設すれば、宜野湾市の中心に居座る普天間飛行基地など、人口が稠密な沖縄島南端部数か所の基地の返還が可能になるという。キャンプ・シュワブにおける現在の建設工事は、2013年末、沖縄県の前知事が日本政府からの強烈なプレッシャーを受けて、海水面埋め立てを許可してから始められた。その前知事は、昨年の県知事選挙で基地反対派候補に敗北している。

【付録】




ダグラス・ラミス「沖縄非常事態」@JapanFocus Okinawa: State of Emergency

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 アジア太平洋ジャーナル/ジャパン・フォーカス
アジア太平洋…そして世界を形成する諸勢力の批判的深層分析



アジア太平洋ジャーナル Vol. 13, Issue 6, No. 8, 2015216


沖縄非常事態

Feb. 12, 2015


C・ダグラス・ラミス C. Douglas Lummis


2015210日】沖縄北部、辺野古の米海兵隊キャンプ・シュワブのゲートの外側に看板が立ち、座り込み220日目と告知している。 その横に年配の男性が立ち、「沖縄人を差別するな」と大書された幟(のぼり)を掲げている。彼は、これはどの団体からも寄贈されたものではない、自分の金で作ったものだ、とわたしにいった。「これなんだ」と、彼は切羽詰まったようにいう。「これが問題なのだ!」。


彼の幟は、これまで15年ほどに沖縄人の基地反対運動が潜り抜けてきた激変、すなわち大幅な政治状況の再編を招いた発想の転換を象徴しており、その変化が、目下のますます必死になっていく政治対決の形に影を落としている。


手短にいえば、沖縄の政治は長年にわたり反戦・反基地革新派と、少数派ながら金があり、金さえ入ってくるなら、それほど基地を気にしない保守派の争いだった。ところが1995年に沖縄の女子中学生が米軍兵士3名に集団暴行されると、島をあげて激昂した。沖縄総決起大会が挙行され、それに革新派と保守派の垣根を越えて――約70,000の人びとが――結集し、人口130万の島では大人数の集会になった。米日両政府はなんらかの施策が必要だと覚悟した。


思いついた案は、沖縄中部の人口密集地、宜野湾市の真ん中に居座る米海兵隊航空基地の閉鎖を約束することだった。人びとは――当日だけ――喜んだが、翌日には、航空部隊施設が県外に移されるわけではなく、北方の名護市辺野古地区に移設されることが判明した。喜びは憤慨に変わった。


その後、ほぼ20年が過ぎ去った。普天間航空基地は相変わらず使われており、今のところ、基地反対行動が新基地の建設を阻止している。往時――そして今でも――最も頻繁に耳にしたスローガンは、「沖縄は日本の国土面積の0.6%しか占めていないのに、在日米軍基地全体の74%が配置されている」。面白いことに、これは反戦スローガンではなく――沖縄にある全米軍基地の撤去を要求しておらず――あからさまに不平等な処遇に対する抗議なのだ。この不平等な処遇の意味合いが沖縄人の意識に浸透するに伴い、これが反基地活動家たちの発想変革を促した。平和に寄せる沖縄の人びとの熱烈な思いに、自分たちは日本の植民地――あるいは、一部の人たちのいう、日本と米国の二重植民地――扱いされているという気づきが加わり、それがますます募っている。そして、「差別」のようなことばは、かつて政治用語に入っていなかったが、公論の中心テーマになっていった。このように状況把握の切り口が変わってしまったので、保守層が基地反対運動に参加する扉が開から、多くの保守派人士がそうした結果、保守陣営は分裂してしまった。保守派であっても、差別されても、侮辱されたと思わずにすむ理由はなにもない。


抗議運動の動機となるもうひとつの要素として、大浦湾は、沖縄で、また日本で最後の原生サンゴの楽園であり、絶滅が危惧される海棲哺乳類、ジュゴンなど、数千の海洋生物希少種がいる豊かな生息海域であるが、この新基地の建設計画に伴って、大量の土砂とコンクリートがここに投入されることになる。この計画は理不尽なまでに破壊的であり、革新派だけでなく、保守派の多くも心底から不快になった。新たな連合がしだいに形成され、これは思想的には革新派が独自に抱いていたイデオロギーほど純粋ではないが、政治的には、はるかに強力になった。


現職の知事だった仲井眞弘多氏は2010年、主だった相談相手のひとりで当時の那覇市長、翁長雄志氏から、次の選挙で積極的な反基地姿勢を打ち出さなければ、確実に負けると進言された。仲井眞氏は忠告を受け入れて立場を変え、海兵隊の航空施設を辺野古に移転させるのではなく、日本の本土に移すべきだといった。これが功を奏して、仲井眞氏は選挙で勝利した。この気難しいご老体はその後の4年間、辺野古の新基地に反対する演技を立派に見せてきたが、任期の終盤に差し掛かり、突然、態度を変え、埋め立て工事の着工許可書を発行した。この選挙公約破りは、彼を説得して、この公約を作らせた翁長・那覇市長をはじめ、多くの激しい怒りを招いた。翁長氏は2014年に実施された次の選挙で、仲井眞氏に対抗して、反基地政策を掲げて出馬し、10万票に迫る前例のない票差で相手を打ち負かした。翁長氏の歴史的勝利の少し前、名護市の反基地市長が、相手陣営に対する安倍晋三政権の圧倒的な支援にもかかわらず、再選されていた。おまけに、衆議院の総選挙で4人の基地賛成派候補の全員が沖縄の小選挙区で完敗した。沖縄の有権者が新基地に反対の意志を固めたのは疑問の余地なく明らかであり、度重なる世論調査の結果もそれを裏づけている。


日米両政府は、新基地に反対する、この沖縄人の圧倒的な意思をただ無視することに決めた。安部首相は、選挙結果が建設になんら影響するものではないと繰り返し公言した。安倍政権の沖縄政策が根深い差別にじっさいにもとづいていることは、疑う人を説得する計算づくの所為であると思えた。これが現時点の状況である。建設に向けた現場の準備作業は、選挙期間中に中断されていたが、115日に再開された。沖縄において、あの伝説的な難問中の難問がいま試されている――抵抗不可能な力が動かせない対象に出会えば、なにが起こるだろうか?


機動隊の手荒い扱いを受ける女性 
動かせない対象の側に、なによりもまず、115日以降、1日に24時間、1周間に7日間、不断におこなわれているキャンプ・シュワブ第1ゲート前の座り込みがある。このデモ行動の目的は、基地建設工事の関係トラックの基地入構を阻止すること、あるいは失敗した場合、遅らせることである。抵抗不可能な力の側に、トラックの前に座り込んだり身を横たえたりする抗議活動家を拘束したり排除したりする任務を帯びるバス2台分の機動隊が配置されている。日中に比べて、夜間は抗議者の人数が少なくなるので、いまでは夜明け直後、あるいは時には真夜中にさえ、大半のトラックが到着する。抗議者たちはビニールシートとポールを使って、弱々しく雨漏りのするテントを急増して、眠れる――あるいは、寝ようとする――ようにした。とりわけ雨が降る夜には、運が悪いとわたしは聞いている。それにもかかわらず、大勢の人たちが一時に何日もそこで野営している。座り込みをする人たちのほとんどは、中年か――時には70代、80代の――年配者である。その理由はひとつには、たいがい退職しており、連日そこに通っても差し支えないこともあるが、彼らが沖縄戦の記憶を胸に秘める世代であり、戦争とそれに関連することすべてに恐れと嫌悪をこころから感じるからでもある。この辺野古基地に反対する闘争は、この世代の沖縄人にとって、最後の意思表示であり、歴史的な遺産となるのかもしれない。


2の対決が、キャンプ・シュワブに近接し、新しい飛行場施設が計画されている大浦湾で繰り広げられている。この海上に、海上保安庁の船団が――たぶん海上に漏れた油を閉じ込めることが本来の用途だからと思うが――オイル・フェンスと呼ばれるフロートを連ねたもので広大な水面を囲い込み、何人もこのフェンスの内側に進入してはならないと規制している。連日、10人以上の抗議者がシーカヤックに乗り込み、フェンスのあちこちに出没する。なかにはフェンスを乗り越え、工事の邪魔をしようとする者もいる。


政府は彼らの行動を阻止するために、海上保安庁の警備艇と高速艇の大船団を送り込んだ。全船が舳先を工事海域に向けて沖合に整列した警備艇の船団のさまは、さながらグレート・ホワイト・フリート[白い大艦隊=1907年~09年、ルーズベルトがアメリカの新興海軍力を誇示するために、世界一周巡航に派遣した白塗り艦隊]である。わたしが数えてみると12隻はあったが、わたしより視力がある人たちはもっと多いという。これは、日本政府がシーカヤッカーたちに対して、領土紛争中の尖閣諸島/釣魚群島をめぐる中国との大掛かりな対決に匹敵する警備部隊を派遣したことを意味するだろう。海岸から見れば、まるで、いまにも沖縄が侵略されるかのようだ。威風堂々とした白塗りの警備艇から数隻の黒い双発高速ゴムボートが発進し、それぞれにヘルメット姿の頑強な海上保安官(女性保安官を見なかった)が4名乗り組み、その体躯はライフジャケットに装着されたさまざまな機器で凸凹ふくらみ、泳ごうとする抗議者がいれば、海中に飛び込めるように、スキューバ・タンクとフィンを装着している者もいる。


カヤッカーたちはオイル・フェンスを乗り越える技を身につけた(背を反らせて舳先を海上にあげ、強く漕いでフェンスに乗り上げ、身を乗り出して、内側に滑りこむ)。だが、内側に入った者は、たちまち巨大な水生昆虫の群れに包囲される。海上保安庁は「安全確保のための適切な警備」と説明するが、これでは、カヤッカーを海へ突き飛ばしたり、背後から跳びかかり、頭を水中に突っ込んだりする行為の説明がつかない。岸から4 km沖合に引っ張っていって、サンゴ礁を離れた外海に放置し、戻れるものなら、戻ってみろと言った説明もつかない。カヤッカー側が、数のうえでも、力のうえでも太刀打ちできないとしても、近寄るのを食い止めるためにエネルギーを消耗し、作業がたいして進まないので、阻止力の主役になっている。また、政府が動員する大規模な戦力は、政府がカヤッカーたちを恐れている程度の明解な指標になっている。それにしても、政府が重さ10トンないし45トンのコンクリート・ブロックを海中に投入するにおよんで、基地建設を阻止する緊急性は高まっている。


だから、カヤッカーたちも諦めず、毎日、出動する。


湾内の対決
第三の対決現場は、沖縄県庁である。反基地革新派と反基地保守派の同盟において、座り込みとカヤック行動を実行しているのは、主として革新派であるが、県庁の実権を握っているのは、主として保守派である。保守派の反基地の思いが真摯なものであっても、彼らは、この類の対決を辞さない政治に慣れていない。ゆっくり動き、書類を繰り、道筋をたどって仕事し、取引することが彼らの生きかたであり、新たな状況に合わせるのは難しいと気づいている。


翁長知事は選挙が終わるとすぐ、習慣に従って、総理大臣、その他の高官を表敬訪問するために上京したが、安倍晋三首相と菅義偉官房長官は面会をむげなく断り、知事をホテルの自室で無為にすごすことを余儀なくさせた。面会したのは、山口俊一沖縄担当相だけだった。知事は屈服を拒み、それから何度か上京したが、本稿の執筆時点で面会した政府高官は、山口大臣だけである。たいがいの沖縄人は、これが翁長個人に対する侮辱であるにとどまらず、沖縄人全体に対する侮辱であると判断した。これは、反基地陣営に立った翁長氏の地滑り的な選挙戦勝利で明確に表明された沖縄人の政治意志が、安倍政権にとって顧慮するに値しないものとして扱われることを示す、間違えようのないメッセージだった。政府はただちに、それまで5年間、連続して増額していた沖縄振興予算を4.6%削減、3340億円(28億ドル)に切り詰めて、この要点を強調してみせた。


いま翁長知事が直面する重要問題は、航空施設の建設用地を造成するための、防衛省による大浦湾水面埋め立て許可申請に対する前知事の公式認可に対処する方策である。日本の法律によれば、県知事の認可がなければ、埋め立て工事を実施できないが、仲井眞前知事が認可を与えていた。そして、知事は日本の法律にもとづき、すでに付与していた認可を破棄または取り消しする権限を有する。破棄は婚約破棄に似ている。手続きに法律上の不備があれば、事は決して成就しない。結局、結婚は成立しない。取り消しは離婚に似ている。結婚生活は法的なものであり、重要な事情が変われば、結婚に終止符を打つ。認可破棄の場合、前者であり、法律にもとづくので、より強く、より決定的である。だが、説得力のある形で実行するためには、まず法務専門家たちの手を借りて、法的手続き全体を慎重に検討しなければならない。後者の場合、法律にもとづかず、むしろ政治判断であり、知事の裁量権で決定できる。したがって、ただちに実行できるが、中央政府に無視される危険性が大きくなる。


知事は、公有水面埋め立て承認書交付にいたる法手続きに、それを破棄することを正当化するだけの重大な瑕疵がないか検証するために、法律および環境専門家の委員会を設置した。委員会の座長は、検証を終えるのに6月末までかかるという。これでは、カヤッカーたちが連日の海戦を耐え抜き、座り込み参加者たちが24時間監視をつづけると期待するには、非常に長く時間がかかりすぎる。しかも、大浦湾の貴重なサンゴの楽園の破壊はすでに始まっており、7月にどれほど残っているか、わかったものではない。そこで、まったく当然のことながら、ただちに中止命令を出せという圧力が知事にかけられ、日増しにそれが強まっている。だが、それに対して、霞ヶ関の政府がこれまで知事のやることなすことを無視してきたので、たとえ中止命令を出しても同じことであり、ただ無視するだけだという意見もある。これはどっちみち、カヤッカーたちと座り込み参加者たちが抗議行動を続けなければならないことを意味している。さらに、中止命令を出せば、7月になれば発布されるはずの破棄命令が裁判所に支持されるチャンスを損なうことになるという見解を示す法律家もいる。


本稿の執筆時点で、この凄まじいジレンマがどのように決着するか明らかでない。だが、キャンプ・シュワブ現地の抗議活動家たちにかかる重荷がすぐにでも軽くなる見込みはとても考えられない。


わたしの住む那覇市から辺野古の座り込み現場に人びとを運ぶバスが毎日運行されている。これは観光バスなので、マイク装置があり、4時間半の旅程がとても面白い政治論議の機会になっている。先週、わたしが乗車したおり、ある女性が「いずれにせよ、わたしたちはこれに勝利しなければなりません。でなければ、沖縄の終わりです」といった。多くのひとたちがそう感じている。この思いは並でない。霞ヶ関の政府は、いつもの方法――金、密室取引、空約束、分断統治――では、もはや沖縄で君臨できるものでないと気づき、沖縄に対する総力戦的な正面攻撃の挙に出て、それに頼りきり、信じている。政府はこのさい、勇敢で独立心のある人びとの意志を徹底的に打ち砕こうとしているようだ。わたしは政府が失敗すると信じるが、その瀬戸際に迫ろうとしている。


本稿の読者のみなさんのなかに、この危機の渦中にある沖縄の人びとに支援の手を貸してもいいという方がおられるなら、できることはたくさんある。まず、あなたご自身の声をあげることができる。あなたの好みに応じて、だれかと個人的に話しあったり、あるいはマイク、手紙、プラカード、リーフレットを使ったりして、そうできる。日本の国外にお住まいなら、日本の大使館や領事館に対して、入館するなり外の街路に立つなりして、あなたの意見を表明できる。米国にお住まいなら、あなたの選挙区の議員、あるいは下院軍事委員長、海兵隊総司令官、または大統領(より正確には、大統領苦情処理官)にあなたの意見を伝えることができる(米国政府関係者のだれかに接触なさるなら、現在の路線をつづけると、沖縄に出入りする権限を全面的に失う現実的な危険があると彼らに気づかせられるかもしれない。当方はそれで一向に構わないが、彼らとしては、やっていることについて、もう少し慎重に考える一助になるかもしれない)。あなたが日本にお住まいなら、またそうできるなら、沖縄に行き、ご自身の目で状況を見て、あるいは座り込みに参加することさえできる。


あなたが日本国籍であり、沖縄以外にお住いなら、極めて強力な武器を使うことができる。沖縄の島ぐるみ運動の大前提に、米軍基地の不平等な配置(小さな沖縄に75%)の強制は不当であり、差別的であるということがある。沖縄に連帯して行動することは、「沖縄人を差別するな」という原則と連帯して行動することになる。それを実行する正攻法として、お住いの地域で「平等負担の会」を結成し、米軍基地が好きなわけではないが、いまこそ沖縄の負担を軽減し、自分たちの地域に普天間海兵隊航空基地の代替基地を自分たちの地域に受け入れるべき時であると公言して、現状ではそうでないが、少なくとも日本国民の世論が米軍基地の一切合財を日本国外に移転させることを支持するようになるまで、これを続けるのである。そうすれば、日本政府が辺野古に基地を押し付ける唯一の「現実的」な言い訳(「他に受け入れる場所がない」)を掘り崩し、沖縄の運動を大いに元気づける効果がある。


もちろん、他にもできる行動は数多くある。あなたに沖縄を支援する思いがあるなら、いまこそ実行のとき!


【筆者】


C・ダグラス・ラミス(C. Douglas Lummis)は、駐沖縄米国海兵隊の元隊員、現在は沖縄住民、沖縄国際大学の講師、著書にRadical Democracy[『ラディカル・デモクラシー』]、その他日英両語の著作が多数。ジャパン・フォーカスの寄稿・編集者であり、津田塾大学の元教授。


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絵本『さがしています』に探す核のトラウマ @JapanFocus

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『さがしています』 (単行本絵本)

アジア太平洋ジャーナル/ジャパン・フォーカス

アジア太平洋…そして世界を形成する諸勢力の批判的深層分析


アジア太平洋ジャーナルVol. 13, Issue 6, No. 8, 2015216.

写真絵本『さがしています』に探す核のトラウマの認識

ヘレン・キルパトリック Helen Kilpatrick

【要約】

受賞歴のある絵本『さがしています』(2012年)は、311をきっかけに出版された。この絵本は広島平和記念資料館に所蔵の遺品の写真に生き生きとした詩を添えたものであり、放射性フォールアウトによる長期にわたる苦しみにまつわる、さまざまな情動を掻きたてる。本稿では、この作品が倫理意識を育てる共感反応を引き起こすのに実効的な役割を果たすものであり、そしてこの種の反応が、フクシマ災害のあと、日本で(また、その国境を超えた)原子力利用の危険性の幅広い「認識」を育むと論じる。

【キーワード】

アーサー・ビナード、岡倉禎志、日本の絵本、児童文学、ヒロシマ、フクシマ、記憶
Arthur Binard, Okakura Tadashi, Japanese picture books, children’s literature, Hiroshima, Fukushima, memory

【本論】

本稿では、受賞歴のある日本の写真絵本『さがしています』を読み、文芸が放射線被ばくによるトラウマに対する共感的で倫理的な認識を育む可能性を探究する1。この挑発的な本は、アーサー・ビナードによる詩文と広島平和記念資料館の収蔵品の写真を組み合わせることによって、一連の個人的な苦しみの物語を伝えている。見開きごとに岡倉による資料館の収蔵品の写真が載っている。原爆の痕跡が残る日用品ばかりだ。写真に添えられたビナードのテキストによって、遺物はそれぞれ擬人化され、いなくなった持ち主を探している。対話体のテキストは、品物と持ち主との断ち切られた絆を劇的に表現し、読者にトラウマを想像する余地を残す。

この本はフクシマ後の他の文学や芸術と同じく、1945年、ヒロシマの原爆投下によるフォールアウトに触れ、放射線被ばくがもたらした情動的な苦しみに思いを巡らすようにさせる。また、核エネルギーの利用に注目するようにもさせる。『さがしています』はトラウマ文学と核アートのジャンルを掛けあわせることによって、放射線による過去の苦しみに対する共感的な認知を、核エネルギーの情緒的・社会的危険性に対する倫理的な認識とブレンドするのだ2。この本は強制的に過去の苦痛を現在によみがえらせることによって、政治意識を育む潜在力をもつ。

『さがしています』は格別にフクシマ・ジャンルの本というわけではないが、災害に対応して創作された。ビナードは日本語著作でいくつかの受賞歴があり、高く評価される詩人にして、とりわけ311以後、反核活動家なのだ3。ビナードは、ヒロシマとフクシマを結びつける『さがしています』についての新聞紙上インタビューで、東日本大震災のとき、彼は広島平和記念資料館にいたと語っている。彼は福島に出かけ、次いで広島の資料館に戻って、資料館の遺物であれば、「核分裂に頼りつづける人間について、なにを語らなければならないだろう」と考えた4。ビナードはその記事で、将来の子どもたちと生きとし生けるものの生存を保証するために、人間はヒロシマの遺物が投げかける問いに答える義務があるという見解を明言する5。ビナードは別のおり、やはり活動家にして作家、中澤晶子との対談で、ヒロシマ、チェルノブイリ、フクシマの関連性に言及し、核兵器と核燃料は同等に危険であると指摘した。彼は、これらの核にまつわる事件が一見遠い出来事のようで、実際は直接わたしたちに降りかかっていると指摘し、懸念を次のように表現する――「原爆は『昔話』として片づけられ、チェルノブイリも『遠いソ連』の問題にされてごまかされ、福島もどんどん遠ざけられ、『冷温思考停止状態』の中で隠蔽されつつあります」6。このようにビナードは、「安全」な核エネルギー利用はありうるという見解に戦いを挑んでいる。

ビナードたち、活動家とアーティストは、ヒロシマがもたらす情動的なトラウマを表現することによって、311に対応するさい、「被ばく」――核放射線被ばくによる苦しみ――の概念を用いて、核の脅威のふたつの形態、軍事と非軍事を結合させた7 ヒロシマは戦争行為に用いられた核兵器によって壊滅させられたが、フクシマ惨事は、不安定な地震地帯に原子力発電所を建造するという決定を原因とする明白な「事故」だった。『さがしています』はヒロシマの終わらない苦痛を思い起こさせながら、文化とトラウマの記憶を鮮やかに保つ大切な手段を提供するだけでなく、将来の核エネルギー依存に対して警告してもいる。ジュリア・ヨネタニが池田安里による核アートに関するインタビューで雄弁に語るように、過去に現在だけでなく、未来さえも見ざるをえない8。ビナードは、フクシマ以後、日本政府が安全でない核施設に関する情報を隠蔽している、また、核事故と放射線被ばくについて、日本人をはじめとする諸国民が集団「冷温思考停止状態」を患っていると指摘する9。このように『さがしています』は、歴史、記憶、トラウマをめぐる現今の論争を背景にして理解することができる。

マーク・ペンデルトンは、体験から遠く距離をおいた人ほど、記憶が薄れ、人はまた、こころの痛手となるできごとを無視し、あるいは意図的に忘れようとさえすると指摘する10。キャシー・カルスが彼女のトラウマ研究で述べるように、文学とアートのトラウマ表現は理解の新しい様態を創造するので、文化的・倫理的特質を現す11。トラウマ作品は、他者に読まれるため、被害者の受け入れられない状況につながり、理解し、共感を表明するため、また災害の直接影響からほど遠い人も含め、人びとを情緒的または社会的に「動かす」ために創作される。人びとが他者の苦難の特質と社会的意味を認識できるようになるのは、自分で味あわなかった未経験者のために、トラウマとなる試練を伝達し、翻訳することによってのみである12。『さがしています』のような洗練された作品は、核のトラウマを知り、認識する新たな方法を示すのであり、これはそうでもなければ、それから阻害されていると感じている人びとが追体験したり、理解したりできない経験になる。

行動としての文学とアート

幼い読者を放射能の人的・社会的・環境的危険性に対する意識に導くことは、ある種の行動になる。そして『さがしています』は、311後の核分裂のトラウマを扱う日本の児童文学の総体拡大の一助になっている。リゼット・ゲブハルトが述べるように、フクシマが文学とアートの流れを分かち、その結果、アーティストたちはより政治的に行動し、環境に新たな焦点をあてたいと望むようになった13。一般文学における311への対応はある程度、国際的な学術界の注目を浴びたものの、危機に対応した児童文学はそれほど考察の対象にはならなかった。児童文学の主目的は文化的価値の伝達にあるので、これは驚くべきことだった。これらの芸術作品が核の破局的惨事をどうのように扱っているのか、どのようなメッセージを伝えているのか、核の利用に潜在するフォールアウトによる、長期にわたる社会的・情緒的影響を考えることをどのように促しているのかを検証することは、それほど重要なのだ。『さがしています』が想定する本来の読者は児童であるが、これは思考力を要する成熟した作品であり、年齢にかかわりなく、読者に断じて媚びていない。

行動主義は多くの形態で表出されるだろうが、ジュリア・ヨネタニがアートと政治の関係で評したように、アートが「単なるメッセージである場合、それはプロパガンダ作品になる」14。核問題にまつわる文化的タブーが増えており、日本では、2013年の国家秘密法[特定秘密の保護に関する法律]のような法制のため、言論の自由の権利が衰退しているので、独創的な形の情報伝達は格別に意義深い。『さがしています』のような革新的な作品が、穏やかでありながら、効果的な形の抗議を表明する一法として、この作品は、無生物の物体に苦痛の思いを吹き込むテキスト手法、つまり、人間を失うことによる個人的なトラウマを資料館の遺物に転化する換喩法[修辞法のひとつ。ある事物を表現するのに、それと深い縁故のあるもので置き換える手法]を採用している。果てしない苦痛と喪失の描写は、共感を喚起し、それが放射線被ばくの人的・社会的影響に対する倫理的で深い認識をもたらしてくれる。

『さがしています』は、話しことばと視覚表現を組み合わせることによって、認知地図化として知られるテキスト化過程が働き、苦しみに対する個人の認知(共感)と核惨事に対する政治的(倫理的)認識の可能性を両方とも開いている。認知地図は空間関係を表すメンタル・モデルであり、想像された景観を実体験と同等のものにする働きがある15。この種の地図化は概念のブレンドを特質としており、読者は「ある概念領域の地図を他の領域に適用する」ことを求められる16。読書で働く心的作用は、わたしたちの社会生活から情報を受けもするし、社会生活に広がりもする主題の位置づけを活性化する。読書能力は概念のブレンドを必要とし、この能力が文化技能を鍛える。フォコニアーとターナーが論じるように、「こどもたちは、複雑で確立された文化概念のブレンドで満ちた構造の世界に生まれ出て、社会で働くためにその多くを習得しなければならない」17。トラウマのアート、または文学において、ブレンド作用は、情緒的または社会的に「動かされる」ためには、マーク・ターナーが説明するように、読者は2組の知識(あるいはシナリオ)の枠組みを混ぜあわせて、第3の意味を創造しなければならない18。『さがしています』のようなトラウマの物語の場合、第3の意味とは、核放射線被ばくによる苦しみに伴う人間的な共感と不正義に対する倫理的認知をブレンドすることによる政治的な「認識」である。

『さがしています』を読むとき、ブレンドは私的なものを倫理的なものに重ねることによって、読者の心情を私的で共感的な洞察をより広い政治的反応に潜在的に移行させるように働く19。この作用は、リタ・フェルスキの「認識」概念と表記されるものになぞらえてもいい20。フェルスキが概略を示すように、認識は、2つの異なる側面、自己認識にかかわる読書の特質、および公的に有効ななにかにかかわる認識という政治の特質を包み込んでいる。「(読書における)認識は…認知にかかわる洞察、知る瞬間、または理解、見抜く力、自己理解(を内包する)知りなおす瞬間に関連している」21。彼女は、政治理論と対照的な認識概念は「知識ではなく、認知…受容、尊厳、公的生活への受け入れを要求することである」と説明する22

フェルスキは、他者を知るということは、認識論的な環境を単純に知るというより、むしろわたしたち自身の私的な関与を知ることを意味すると主張する。フェルスキにとって、この第2のタイプの認識は、「(認識として)真実を要求することというより、むしろ正義を要求すること」を伴う倫理の力である23。彼女は、前者の自己認識は後者の公的認知に関与しており、その場合、いかなる類の認識であっても、「主観に先立つ客観的な関係に根ざしている」と断言する24。言い換えれば、いかなる自己認識も他者に対する認知によってのみ生じるのであり、したがって、社会的または倫理的な要素を含んでいるので、認識の2形態は一体に合流する。共感は、他者の思いを知覚することにかかわるので、社会的な領域に入りこむ。すると、共感は社会的な理解となって、読者が自己より広い社会共同体に気づくと、あるいはさらに具体的にいえば、なにかが正義に反すると読者が気づけば、共感は倫理意識に転化することができる25。そのような二股にわかれた認識過程によって、『さがしています』のトラウマ提示は、たとえ読者に直接的な体験がなくても、放射線にともなう不正義に対して、共感をもって、したがって倫理的、政治的に反応するように新たな読者を方向づけるのである。

『さがしています』では、このブレンドは、より広い社会的心性、あるいはこの場合、核分裂に関する文化的知識である知識構造、すなわち「スキーマ」[外界を認識するときに使われる知識の枠組み]のうえに位置づけられる、さまざまな筋書きのストーリーを語ることでなされる。この本は、より広い知識の理解のための枠組み、そして可能なかぎりの多様性、または自在に変わる話しことばの「台本」がかもしだす効果のためのそれを兼ね備えている26。この本は普通の絵本の形式を採用しており、読者は精神のブレンドを経験するために、動物や物体を擬人化しなければならない。この場合、撮影された遺物が、不在の人間である持ち主の転喩[代役]を演じている。しかし、事物が感じ、個人的な人間感情を経験できるとされるだけではない。筋書きもまた変化し、物がそれぞれ一人称の声を持ち合わせ、また読者に対話体で呼びかけるので、これらの品目が経験した過去の苦しみが現実となり、親密さと共感を共に促している。

本の筋書きはこれらの要素によって、ヒロシマ原爆投下の「記憶」の素描に対するダイナミックな親密さと、放射線被ばくのトラウマと危険性に対する気づきをもたらしている。読者にしても、たとえば、キノコ雲、広島ドーム、爆発のためにビルに残った影、あるいは犠牲者や被ばく者の苦しみといった、文化的知識構造に含まれる数多くの記憶の幾ばくかを持ち合わせているかもしれない。本に書かれた筋書きが、写真のものに似た昔失ったものや大切な持ち物の記憶を呼び起こすかもしれないし、あるいはことばが、たぶん学校で習ったり、読んだり、または親戚に聞かされたりした記憶や広島のよく知っていることを思い起こすきっかけになるかもしれない。ブレンドはこの種のおおよその記憶を活性化するほか、ヒロシマの放射線被ばくによる情緒的苦しみを他の状況に振り替える位置づけを促す。『さがしています』の、それぞれに新しく、親しみ深い筋書きは、いかなる既存の記憶とも混じりあい、新たな共感を刺激し、その結果、(フクシマのもののような)もっと見えにくい形の放射性フォールアウトがもたらす不正に対する認識を促す。

後にもっと詳細に論じるが、ページめくりの本質、そしてまた『さがしています』の反復構造がトラウマの筋書きを確立し、終わらない人間の苦痛と喪失に対する共感的な認知を生じさせている。このトラウマの筋書きは、一人称の親しみやすさ、実体験の記憶、喪失として展開し、終わらない悲嘆の「解明」を伴っている。見開き(2ページ)ごとに、写真の遺品が(持ち主の)私生活を3節か4節で話し、86日朝、原爆の「閃光」が走る(「ピカアアアアアッときた」「おとされた」「ひかった」)までの経験を物語る。それぞれの物体が、いま不在になっている持ち主の人生を終わらせた個人的悲劇を問いかけ、回顧する。ページを繰るごとに予想することによって、倫理的な認識が積み重なる。さらに品目ごとに筋書きが変わるが、さまざまに親密なトラウマのシナリオを心的に処理することによって集約される。メランコリックな文体、レベルの高いリアリズム、美しい写真の抑制された色調が相まって、品目ごとの哀調を帯びた筋書きを補強し、しかもその遺品が、墓石に使われることが多い、落ち着いた色合いの御影石の板のうえで撮影されているので、なおさらである27 このように身近な筋書きがいやが上にも、放射線の破滅的な危険性に対する、より広範な政治的認識を煽りたてる。

『さがしています』における個人の特定

『さがしています』では、平和資料館から借り受けた日常生活の身の回り品(時計、手袋、弁当箱など)によって、個人が特定されている。これらの物体は、それぞれ個別のトラウマ、喪失、悲しみを伝えるので、その表現は、個人的、身近であり、痛切である。これらの身近な物語の筋書きのどれにしても、フェルスキのいう「親密者のショック」の経験のきっかけになるかもしれないし、また自己増幅過程を生じさせもする28。『さがしています』を読むことによる、この「自己増幅」――認知の最初の形態――は、たとえば、それぞれ個別の声を付与された写真の遺品を相手にする親密な対話という、この本のシミュレーションによってもたらされるのかもしれない。本文中の各作品の最初の行は、写真の遺品のくだけた、または親しい声による読者への「挨拶」ではじまり、時計が「おはよう」といい、敏行の靴が「いってきます」といい、敏彦のビー玉が「あそぼ」という29。(たとえば、図1を参照のこと)そのようなことばは、遺品の「個性」の力と相まって、読者に「呼びかけ」、挨拶の在来様式の記憶を呼び起こす効果をもたらす。このような挨拶は、たとえば、「おはよう」といったら、「おはよう」、「いってきます」といったら、「いってらっしゃい」、「いただきます」といったら、「どうぞ」というふうに、普通、返事をしなければならない。だから、黙っている読者に対する、この個人的な呼びかけの流儀は、即座に格別な親密さのシミュレーションになる。さらにいえば、この最初の人間的な呼びかけが、特定の苦痛の私的な告白につながるのである。遺物が直接、読者に呼びかけることによって、それに命が吹き込まれるとともに、それぞれの遺品が告白する声が親しいので、それぞれの品目の苦しみに対して、個人的な認識が呼び起こされる。

『さがしています』に配合された政治的認識

1.広島の理髪店の時計(広島平和記念資料館、濱井徳造寄贈)

この事故増幅認識が実現すれば、ブレンドによる共感が促され、思いやりのある社会的行為によって、特定のトラウマのシナリオに倫理的または政治的な要素がもたらされる。この倫理的な立場は、フェレスキのいう、不正に対する(政治的)認識の第2のタイプを必要とする30。『さがしています』に登場する物体のいずれか、またはすべてに寄せる個人の思いやりは、放射線被ばくにまつわる広範な不正に対する倫理的認識に混じりあう。『さがしています』の筋書きを追うにつれ、原子の閃光がもたらした長期にわたる果てしない苦しみを理解することによって、より深い政治的認識が促さられる。

政治意識が芽生えたのは、ヒロシマ原爆投下の「閃光」を浴びて、時が凍結した遺物に共感を覚えるたからである。この閃光の効果とひとつとして、どのページを開いても触れられているように、資料館に収蔵されなかったとすれば、自然に朽ちて、歴史のなかで消え果てたはずの日常品を「凍結」させてしまった。ブレンド作用が、まずそれぞれの品目に愛着を覚えさせ、次いで凍りついた時によって、爆発の力と時間的な作用に気づかせ、読者に過去の放射性フォールアウトに伴って今もつづく苦しみを思い起こさせる。トラウマの記憶を親密に知覚すると、多くの人たちの終わらない個人的な苦しみに対する同情に結びつき、核分裂とその余波が引き起こした不正に対する倫理的認識が生じる。

また、ページをめくるごとに、被ばくが引き起こした苦しみと被害に対する不正の感覚が累積し、政治的認識を増幅する。ページをめくるごとに、新たな個人の記憶、または「物語」が、後の方のページで特に「ウラン」爆弾と表記されている原爆の炸裂による、さらにもうひとつの身近で心が痛む悲劇を露わにするので、倫理的な問いがいよいよ深くなる31。たとえば、建物を粉砕し、人びとを瞬時に殺す破壊を招いた爆弾そのものよりも、常に放射能とウラニウムを苦しみをもたらしたものとしてあげることによって、不正の思いが募っていく32。巻き添え被害(それぞれの品目の喪失と苦痛)の原因を原爆の閃光と見る認識が深まり、核分裂にともなう目に見えない潜在的な危害にしだいに気づくことによって、ますます倫理的・政治的になる。

それぞれの筋書きが気づかせる時間の分断は、親しい出会いに対する読者の期待を裏切るとともに、喪失と失望の経験を強烈にする効果を生む。この情緒の置き換えは、(品物をとうして)「挨拶」をしている人物はもはや生きていないと理解することから生じる恐怖と混じりあう。たとえば、時計が「あなたにとって、いまはなん時?」と問いかけたあと、次の行で「わたしにとって、いまは、いつでもあさの815分」というとき、親しげで無難に思える問いかけが、のっぴきならないものになる33。間を置かず、時計の現在が永遠の「いま」であると告げることによって、放射線による苦しみの永続性が強調されているのだ。筋書きに込められた時間性が、のっぴきならない問いかけとともにダイナミックな効果を生み、いかなる原子力の継続利用に対しても、倫理を問いつめている。止まった時間、現在がつづく時制、繰り返される「いま」が、いかなる形の核分裂からも招来されるかもしれない長期にわたるトラウマと危険の故に、核エネルギー利用に反対の声をあげているのだ。

慰められることもなく、懐かしい記憶をいまでも探し、待ち望んでいる、それぞれの品目の時間が止まっていると理解することも、さらなる核分裂による喪失の予想をもたらし、増幅する。それぞれのシナリオの末尾で、途切れることのない喪失感を果てしなく「さがしている」と表明する悲しい声によって、いなくなった14人の持ち主に対する共感がかもしだされる。たとえば、ひしゃげた嘆きの弁当箱は、放射能から食べ物を守れなかったが、いまだに孤独なまま、12歳のレイコちゃんがお腹をすかせて、「いただきます」という時を探している(図2を参照のこと)34。持ち主の口から二度と聞くことのできないことばは、身近でもあり、悲しみに満ちてもいる。このように、品物のそれぞれが今もつづけて探し、耐えていることが、核の悲劇を現在の時点にダイナミックに再現し、蓄積する状況に絡まる倫理を考えるように促している。久しく失われたものに対する、それぞれの品目の途絶えることのない渇望が、レイコのような幼い命の喪失に対する同情を促すだけではない。放射線被ばくの後遺症による人間の苦しみを確認することも、私的なことから公のものになる。

2.渡辺玲子さん(12歳)の弁当箱(広島平和記念資料館、渡辺茂寄贈)

さらにまた、それぞれのシナリオが、身近な品物と持ち主のかかわりを描くことによって、ありえた生活を読者に想像させる。それも、持ち主たちの過去の生活を、喪失と死にまつわる現在の情緒が働く空間に結びつけることによってである。品目のそれぞれが、いまでも探しているものへの切ない思いを示しながら物語を終えるので、現在時点が前面に浮き上がるだけでなく、ヒントを与えられた読者は「もし原爆さえなければ…?」と失われた生活について問うことにもなり、一人ひとりの犠牲者の別の人生を想像するように仕向けられる。事実に即さない一時的な表現は、過去が現在の感情に影響をおよぼす様相を考えるための先例となる。探しているものが時には、マサタロウさんの義歯が永遠に切望している口のような身体器官だったりする(図3を参照のこと)35。大きく裂けた口とか顔から欠けた鼻といった身体を失った人体器官を探す行為が、さらに衝撃を増幅し、それ故、私的にも政治的にも認識の衝撃を増強するのだ。被ばくした遺物がもたらす絶望感が、放射線が過去から現在へ、そして未来へともたらす苦しみとトラウマの原因になったヒロシマの核分裂と組み合わさると、政治的認識はしだいに増強される。

写真に撮られた人びとの所有物の面影は、失われた器官または過ぎ去った生活への感情移入だけでなく、失われた可能性への共感をも促す。それが「もし原爆さえなければ…?」の問いと一緒になって、個人的に覚える痛恨の思い、潜在的ではあるが、結着することなく永遠につづく命を惜しむ悲嘆の思いをも抱かせる。それぞれの持ち主のさまざまに個人的な将来を想像する行為が合わさって、実現されていない生活が残した空虚と悲哀がかもしだされる。それぞれの物体が切望している現在が継続する状態は、望んでいるものを見つけることが不可能だという認識をさらに強める36。それ故、この希望のなさが不在を読者に気づかせ、失われた記憶や他の個人的な喪失を悲しませ、歴史上の原爆が引き起こした別離の苦しみを体験させる余地を与える。

3.岡原政太郎さんの義歯(広島平和記念資料館、岡原ツネヨ寄贈)

さらにまた、連想が読者にそれぞれの遺物が過去に帰属していた世界を想像するように迫るので、親しかった集団の喪失を思い起こさせ、その結果、人間関係の必要性、友だちや愛しあう人たちの必要性により深く気づくことになる。愛惜の思いと終わりのない探しものは、ヒロシマに原爆が投下されなかったとすれば、あるいはフクシマで原発が事故を起こさなかったとすれば、共同体社会が失われずに住んだはずだという政治的な気づきを促す。言い換えれば、放射能被害のために家族と友だちを失う恐ろしさを想像することを読者が迫られると、その認識が政治的認識を混じりあう、フェルスキの二面概念を個人の共感が活性化するのである。

このように個々のシナリオが全体として、死と喪失の悲劇の包括的なシナリオを織りなし、核分裂の運命的な作用に対する倫理的認識を活性化する。上掲の3事例の場合、既定の様式から外れたシナリオが死の虚しさをより深く考えさせる。ジョン・スティーヴンスがいうように、「読者が筋書きの冒頭部のできごとを理解すると、次になにが起こるかを予想し、テキストが展開して、期待した筋道が完成したり、変化したりして、満足を得る」37。見開き3(レイコちゃんの弁当箱。図2)の場合、予測される筋書きのパターンがしっかり確立しており、読者は、最後の行で各品目がいまだに待っているもの、または探しているものを述べると予想することができる。だが、見開き4に初めて極彩色で登場するセツコさんの紫色ドレスの場合、筋書きのパターンが変化し、違った愛惜を即時的に表明している(図4を参照のこと)。セツコさんのドレスは、持ち主の苦しい息遣いを息が止まるまで聞いていたのを回想し、末尾の段で、いまだに探しているものを述べるのではなく、彼女の恐ろしい死を忘れることができない惨めさを表明している。現在進行から「わすれないよ」で強調される悲観的な未来への時制の変化が記憶と予想の概念と結びつき、放射線疾患による死の恐怖および喪失の恐ろしい永続性の意識を喚起する38

4.藤澤節子さん(23歳)のドレス(広島平和記念資料館、藤澤敏子寄贈)

2節、第3節で、筋書きが変転し、否応なく深読みが求められ、さらに高いレベルの共感的・政治的意識がもたらされることになる。見開き6で紹介されるタモツおじさんのメガネの場合にも、第2節で転調する。タモツおじさんは(読者も含め)だれに会っても、「はじめて、お目にかかります」と、謙虚だが楽しそうに挨拶する(図5を参照のこと)39。メガネが「チョウチョウみたいに、ぴとっととまっていた鼻」が世界初のウラニウム原爆のために消えてしまったと説明したあと、「ウランの核分裂をはじめたら、どうやって終わりにできるか……」という問の答を探しているが、見つからない(文字通りには、「見えないんだ」)という。鼻を失ったメガネのショッキングな画像と併せて、挑発的な問が、核問題に安易な解決策がないという認識を喚起している。この筋書きにはまた、視覚と見ることのドラマがあり、これもより深い認識的知覚を促しているのかもしれない。「お目にかかります」の「目」、「見えない」の視力喪失、そして添えられた写真の見るからに不透明になったとわかるレンズが合わさって、放射能放出の影響に対する社会全般または政治の盲目性に関して、さらに卓越した認識を示唆している。

見開き8は、この本の中間点に配されたクライマックスであり、第3節に筋書きの転調がある。これは、虜囚になったアメリカの兵隊とともに滅んだ日本の兵隊がもっていた鍵束の物語。添えられた写真が2ページ分全面に拡大され、その鍵束の写真は表紙でも使われており、そのシンボルとしての重要性が示されている。鍵束は、「ひとをとじこめて、なんになる? ほんとうに、とじこめなきゃならないのは、ウランじゃないか……」と問う40。最終行で、鍵束は「おれたちは、やくめをさがしているんだ」という(図6を参照のこと)41。ウラニウム封印という挑発的な問と併せて、筋書きの転調が、人間と環境に対する潜在的影響といった、より広範にわたるウラニウム利用の倫理に関して、考慮すること、また同時に、より高い意識をもつことを要求している。タモツおじさんの失われた鼻の個人的なショックが、より公共的な兵隊の鍵束の意識と混じりあって、ウラニウム(誤)利用に関する倫理の強烈さを深刻なものにしている。以上3つの筋書きが身近だったり公共的だったりするシナリオを混ぜあわせ、放射線の悪影響に関する、よりあからさまに政治的な気づきを促している。

5.平柿保さんの眼鏡(広島平和記念資料館、平柿アヤノ寄贈)

6.中村重雄中佐の鍵束(広島平和記念資料館、中村昭夫寄贈)

さらにまた、このような政治的意識は、こころ痛む語りがフィクションであるとしても、物体が実在した人間(いまや物語のおかげで身近になった人たち)に所有されていたという事実に関する明敏で深まる気づきに由来している。この本の巻末に、実在したヒロシマ被爆犠牲者14名の人物紹介が掲載され、その現実性がより鋭く浮き彫りになる。持ち主の多くが非常に幼ななかったと明かされる。手袋と弁当箱の持ち主たちは、ほんの12歳だった。とりわけ品物の擬人化された詩情のある語りを読んだあと、巻末の事実注釈の悲痛な情念はほとんど触知できるほどだ。たとえば、女子高校生、満里子さんが携行していた非常袋は、母親に発見され、彼女の遺体確認の手段に使われた。その母親はその後まもなく、放射線疾患による腸内出血が止まらず、死亡した。この事実とフィクションの組み合わせが、さらに強烈な共感的で政治的な認識を喚起しており、行動への呼びかけ、あるいは、ごく控えめにいっても、核エネルギーに関連する問題を倫理的に考えるように誘っている。

『さがしています』は、停止した時間を通じて永続的な苦痛を経験している擬人化された物体の観点から書くことによって、強固な感情移入の立場を築きあげ、それに拠って、核の惨禍による倫理的影響を考察する。それもまず、これら呼び起こされ、再評価された命の身近で終わりのない苦しみを帯びた遺物たちの個別的および集団的な声に共感するように読者に迫ることによってである。こころ痛む、人間的なテキストの声は、写真に撮られた物体に命を吹きこむだけでなく、それらの失われた持ち主たちの個別性と価値を、より広範な社会を構成するにふさわしかったり、望ましかったりする個人のものとして浮き彫りにしてもいる42。苦しんでいる声、挑発的な問いかけ、個人的な物語、実在の物体の芸術的な写真、核分裂の破壊的な作用を経験した14人の持ち主それぞれの実生活の環境を説明するルポルタージュが混じりあって、『さがしています』はこれらの過ぎ去った生活の価値の真実を伝え、記憶に留めるだけではない。原爆の後遺障害を苦しみと死亡の原因として問いつめてもいる。累積効果が、読者を放射線の危険性に対するより高いレベルの倫理意識に誘い、放射性フォールアウトの不正義と核エネルギー利用の社会的危険性に関するより深い認識を促すかもしれない。この本がそうすることによって、読者を、苦しんでいる身近な日用品に対する共感から、核の危険の脅威のない普段着の生活を享受する万人の権利に関する社会的認識へと動かす。

さらにまた、筋書きは解消策や再生策を欠いており、その全体が未来に対する警戒と戦慄の感覚を投げかけている。感情移入にもとづく認識が政治性と統合して、原子力エネルギーの不正とそれがもたらしかねない恐ろしい社会的影響に関する、より深い理解を促している。体現した精神の苦悶と社会共同体の喪失は、他者、そしてわたしたちが生きており、(再)創造に関与している環境に対する人類の責任に対する省察を喚起する。したがって、『さがしています』の読書体験は、より平等に統合され、維持可能な共同社会を代価としたエネルギー需要を考える必要性に関して進行中の論争に寄与する。

『さがしています』は現実および人間の苦悶の仮想表現を統合することによって、災害後の日本における苦しみの証言を伝える表現様式を提示する。この本は、読者を新しい政治的立場へと誘う文化的記憶を活気づけるのに役立つ。この本は、過去の破局的惨事にともなう情緒的トラウマの社会的意味合いを省察することによって、文化的記憶を蘇らせるだけでなく、過去、現在、未来をともにつなぐ43。ヒロシマの歴史的事件を貫く人間の記憶の情念の作用を伝えることによって、現在まで脈々と伝わり、核の力の拡散を問いつめるという二面性をもつ認識が活性化される。言い換えれば、この本によって、過去の原爆の惨状に由来する苦しみと共感に目覚めることが、現在の社会的・環境的状況の倫理を考えるための静かな時間に誘い、311がもたらした放射線被曝という現時点の問題を解明するためにも有益なのだ。

【推奨されるクレジット表記】

[原文]Helen Kilpatrick, "The Recognition of Nuclear Trauma in Sagashite imasu (I am Searching)." The Asia-Pacific Journal, Vol. 13, Issue 6, No. 8, February 16, 2015.

[日本語訳]#原子力発電_原爆の子:ヘレン・キルパトリック「写真絵本『さがしています』に探す核のトラウマの認識」

【筆者】

ヘレン・キルパトリックHelen Kilpatrickは、ウロンゴング大学の日本語主任講師。彼女の研究は、児童向け絵本作品を分析することによって、関心対象とする現代日本の文芸とアートを統合している。文学研究、ジェンダーおよびヴィジュアル・アートの分野で論文を発表し。最近の出版物に、少女の視覚的諸側面、および日本のヤングアダルト小説における越境文化の構築に関する論文がある。ヘレンは Portal: Journal of Multidisciplinary International Studies[ポータル:学際・国際研究ジャーナル]掲載の論文“Envisioning the shōjo Aesthetic in Miyazawa Kenji's ‘The Twin Stars’ and ‘Night of the Milky Way Railway’”[「宮沢賢治の『双子の星』と『銀河鉄道の夜』に幻視する少女の美学」]で、2013年「オーストラリアにおける卓越した日本文学研究に贈る井上靖賞」を受賞。著書にMiyazawa Kenji and his Illustrators (Brill, 2013)[『宮沢賢治と彼のイラストレーターたち』]。

【脚注】

1 アーサー・ビナード(詩)岡倉禎志(写真)『さがしています』(童心社、2012年刊)。同書は2013年に栄えある第44回講談社出版文化賞および第60回産経児童出版文化賞をダブル受賞している。ウィキペディア「アーサー・ビナード」。

2 「核アート」を論じたアジア太平洋ジャーナルの別記事:Asato Ikeda, “Ikeda Manabu, the 2011 Great East Japan Earthquake, and Disaster/Nuclear Art in Japan”The Asia-Pacific Journal, vol. 11, iss. 13, no. 2. Retrieved on 29 March 2014. 国際的に高く評価されている絵本の例に、丸木俊『ひろしまのピカ』小峰書店(1980年刊)。丸木俊(19122000年)は、1950年代に夫の丸木位里(19011995年)と共同制作した『原爆の図』で名高い。日本の核文学については、次の文献を参照のこと――John Whittier Treat, Writing Ground Zero: Japanese Literature and the Atomic Bomb, Chicago, University of Chicago Press, 1995.

3 201299日付け共同通信「抗議相次ぎ集会中止 講演『セシウムさいた』で(魚拓)」[アーサー・ビナード氏「本来なら花が咲き喜ばしい春の訪れを台無しにした原発事故の大変な状況を伝えたい」]。東京新聞「こちら特報部」編『非原発――「福島」から「ゼロ」へ』一葉社(2013年刊)p. 1220。ビナードが日本で最初に受賞した作品に、第6回(2001年)中原中也賞受賞・詩集『釣り上げては』。なお、日本語で執筆する外国人作家について、“FOREIGN AUTHORS WRITING IN JAPANESE”を参照のこと。201536日閲覧。

4 Yasufumi Kado, “U.S. Poet Publishes Photo Book of Personal Belongings of Atomic Bomb Victims”, The Asahi Shimbun, 2 August 2012. 201536日閲覧。なお、アーサー・ビナード(詩)岡倉禎志(写真)『さがしています』童心社(2012年刊)、アーサー・ビナード「あとがき」も参照のこと。

5 Yasufumi Kado, “U.S. Poet Publishes Photo Book of Personal Belongings of Atomic Bomb Victims”, The Asahi Shimbun, 2 August 2012. 201536日閲覧。

6 雑誌『日本児童文学』2012910月号、アーサー・ビナード、中澤晶子「《対談》われらみな『風下っ子』」p. 35

7 「被ばく」の2形態として、原爆による放射線照射「被爆」、そしてもっと一般的で、「平和目的」または事故による照射「被曝」がある。この件に関して、詳しくはMurakami Haruki, “Speaking as an Unrealistic Dreamer”The Asia-Pacific Journal, vol. 9, iss. 29, no. 7, 18 July 18 2011を参照のこと。201536日閲覧。[阿修羅:村上春樹さん:カタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文「非現実的な夢想家として」」。201536日閲覧]村上はこのスピーチで、「(福島の場合)誰かに爆弾を落とされたわけではありません…我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです」と述べている。

8 Asato Ikeda, “On Uranium Art: Artist Ken + Julia Yonetani in Conversation with Asato Ikeda”The Asia-Pacific Journal, vol. 11, iss. 11, no. 1. 18 March 2013. 201536日閲覧。

9 「《対談》われらみな『風下っ子』」p. 35。日本がヒロシマ・ナガサキ原爆投下による核被ばくのトラウマを経験したという事実があるにもかかわらず、日本における原子力発電所の拡散によって、この種の思考停止が実証されている。(本稿執筆時点で、全原発が停止中)2012310日にさいたま市で予定されていたビナード講演会「さいた さいた セシウムがさいた」を企画した実行委員会が抗議のために開催断念を余儀なくされるなど、抑圧と自己検閲も顕著である。東京新聞「こちら特報部」編『非原発――「福島」から「ゼロ」へ』一葉社(2013年刊)p. 1220を参照のこと。この「魚拓」もどうぞ。201536日閲覧。

10 Mark Pendleton, “Subway to Street: Spaces of Traumatic Memory, Counter-memory and Recovery in post-Aum Tokyo”, Japanese Studies, vol. 31, no. 3, 2011, p. 360.

11 Cathy Caruth, Trauma: Explorations in Memory, Baltimore and London, Johns Hopkins University Press, 1995, p. 11.

12 Stef Craps and Gert Buelens, “Introduction: Postcolonial Trauma Novels”,Studies in the Novel, vol. 40, nos. 1 and 2, 2008, p. 1; Karen Scherzinger, “Other People’s Pain: Narratives of Trauma and the Question of Ethics”(review), Journal of Literature and Trauma Studies, vol. 1, no. 1, 2012,p. 119.

13 Lisette Gebhardt, “Post 3/11 Literature: The Localisation of Pain – Internal Negotiations and Global Consciousness”, in Lisette Gebhardt and Yuki Masami (eds.), Literature and Art after “Fukushima”: Four Approaches. Berlin, EB-Verlag, 2014, pp. 11–35.

14 Ikeda, “Ikeda Manabu, the 2011 Great East Japan Earthquake, and Disaster/Nuclear Art in Japan”.

15 Ryan, Marie-Laure, “Cognitive Maps and the Construction of Narrative Space”,Narrative Theory and the Cognitive Sciences. Ed. David Herman. Stanford, CSLI Publications, 2003, pp. 214–42; p. 215, her emphasis.

16 Roberta Seelinger Trites, “Growth in Adolescent Literature: Metaphors, Scripts and Cognitive Narratology”, International Research in Children’s Literature, vol. 5, no. 1, 2012, p. 65. See also Lisa Zunshine, “Rhetoric, Cognition, and Ideology in A. L. Barbauld's Hymns in Prose for Children (1781)”, Poetics Today, vol. 23, no. 1, 2002, p. 130.

17 Fauconnier and Turner, The Way We Think. p. 390. The back jacket reiterates that “a child's entire development consists of learning and navigating ... blends”.

18 Mark Turner, “The Cognitive Study of Art, Language, and Literature”, Poetics Today, vol. 23, no. 1, 2002, p. 10. Conceptual blending combines “two schematic frames of knowledge or two scenarios ... to create a third mentalpacket of meaning that has new, emergent meaning”. Also see, Fauconnier and Turner, The Way We Think, p. 48.

19 ジル·フォコニエ、マーク・ターナーが展開した概念ブレンディング理論は、認知研究を統合し、人間の心がさまざまな(仮想または現実の)シナリオをブレンドして新たな意味を創造する様相の枠組みを提示する。著者らはまた、そのようなシナリオが思考によって宿りうると説明する。Gilles Fauconnier and Mark Turner, The Way We Think: Conceptual Blending and the Mind’s Hidden Complexities, New York, Basic Books, 2002.

20 Rita Felski, Uses of Literature, Malden, Blackwell, 2008, p. 30.

21 フェルスキはまた、認知または自己不安の瞬間が、必ずしも認知的ではなく、感情的な反応を引き起こしうると戒める。Felski, Uses of Literature, p. 29.

22 Felski, Uses of Literature, pp. 29–30.

23 Felski, Uses of Literature, pp. 29­–30.

24 Felski, Uses of Literature, p. 30.

25 この後者の要点は、フェルスキの政治的認識有効性概念に関連している。
This latter point involves Felski’s concept of validity in political recognition.

26 ジョン・スティーヴンスの説明によれば、「スキーマ[外界を認識するときに使われる知識の枠組み=広辞苑]」は、全概念に関する知識を形成する記憶の諸側面。すなわち、「理解の枠組みを形成する知識の構造、またはパターン……スキーマがわれわれの経験の総体の静的な要素であるのに対して、筋書きは動的な要素であり、事象または行為が展開する推移を予想する様相を提示する」。Stephens, John. “Schemas and Scripts: CognitiveInstruments and the Representationof Cultural Diversity inChildren's Literature”, in Kerry Mallan and Clare Bradford (eds),Contemporary Children’s Literature and Film: Engaging with Theory, Palgrave Macmillan, 2011, p. 13–14. わたしたちが(文および/または画像)を読むと、提示された素材が記憶にある静的なスキーマの一部に合致し、核心的な部分を活性化させて、もっと動的に進展する筋書きを展開させる。スティーヴンスが脚注で示唆するように、スキーマと筋書きという用語は、もともと認知言語学に由来しているが、心に関する諸学説を活用する、ごく最近の話法理論に取り入れられている。See p. 35.

27 この独特なタイプの花崗岩は、「議院石」と呼ばれることも多く、この絵本のための撮影用に、これらの物体を置く台に選ばれた。ビナードと本の編集者は石工に依頼して、広島市外の町、倉橋島からこの石を切り出してもらった。『さがしています』p. 33、ビナードの「あとがき」を参照のこと。

28 Felski, Uses of Literature, p. 39.

29 『さがしています』pp 2, 18, 24。この本は、文法的に正しい「あそぼう」ではなく、口語的な(幼児語)「あそぼ」を使っている。

30 Felski, Uses of Literature, p. 30.

31 P. 12, 16(図5.タモツおじさんのメガネ、図6.ヘイタイの鍵束)を参照のこと。

32 後者の件について、匿名の査読者に感謝する。

33 『さがしています』p. 3。「あなたにとって 『いま』は なん時?」、「わたしにとって 『いま』は いつでも あさの 815分」。
 The Japanese is: “Anata ni totte, ‘ima’ wa nan ji?” “Watashi ni totte, ‘ima’ wa itsudemo asa no hachiji jūgofun.”

34 『さがしています』 p. 6.

35 『さがしています』pp. 20–21.

36 この件について、匿名の査読者に感謝しなければならない。

7 Stephens, “Schemas and Scripts”, p. 15.

38 『さがしています』p. 8.

39 『さがしています』p. 12.

40 『さがしています』p. 16.

41 『さがしています』p. 16.

42 Felski, Uses of Literature, p.47. ここでフェルスキは、従属的なジェンダーまたは少数派を価値あるものと論じているが、久しく忘れられていた『さがしています』に登場する物体の持ち主たちもまた、時間のうちにか、積極的――または、政治的――な記憶の抑圧のうちにか、組み込まれている大衆の一部を構成している。

43 他の文献も同様な比較を描いている。1970年代から反核エネルギーの筆を振るってきた福島県の作家、若松丈太郎の311以前の詩作、とりわけチェルノブイリに触発されて1994年に書いた詩「神隠しされた街」、そして福島原発で隠蔽された大事故をリストアップした「みなみ風吹く日2」[いずれのリンクも訳者による。201536日閲覧]は、いまになって予言とされている。Mark Rainey, “Playing Around With Plutonium”Nyx: noctournal, 8 August 2012を参照のこと。201536日閲覧。若松丈太郎(著)アーサー・ビナード(英訳)齋藤さだむ(写真)詩集『ひとのあかし』清流出版(2012年刊)も参照のこと。中澤晶子、1988年作のヤングアダルト小説『あしたは晴れた空の下で――ぼくたちのチェルノブイリ』汐文社は、三重災害のあと、改装版(2011年刊)が刊行されている。雑誌『日本児童文学』2012910月号、アーサー・ビナード、中澤晶子「《対談》われらみな『風下っ子』」p. 3735を参照のこと。

オーストラリア放送協会【ニュース】フクシマ核惨事4周年、癌リスクのある放射線量レベル

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News ABC オーストラリア放送協会ニュース
フクシマ核惨事4周年:
癌リスクのある放射線量レベル
AM 北アジア通信員 マシュー・カーニー Matthew Carney

2015311
PHOTO: Norio Kimura, 49, who lost his father, wife and daughter in the tsunami, checks radiation levels near the Fukushima Daiichi nuclear power plant. (Reuters: Toru Hanai)父、妻、娘さんを津波で亡くした木村紀夫さん(49)が、福島第一原子力発電所の近くで放射線レベルを測定

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MAP: Japan 関連日本地図


4年前の今日、マグニチュード9.0の地震と巨大な津波が日本は襲い、広範におよぶ破壊をもたらし、22,000人近くの人びとが死亡または行方不明となりましたが、福島第一原子力発電所の危機も招きました。


VIDEO: Fukushima residents take cancer testing into their own hands (ABC News)【ビデオ】フクシマ住民が独自に受ける癌検診

三重核メルトダウンはチェルノブイリ以来、世界最悪の核災害になりました。

放射線レベルが高いため、いまだに約120,000人の人びとが自宅に戻れずにいますが、癌など、長期にわたる健康への影響の恐れが、日本で最も深刻な懸念と論争の種になっています。

災害以前の日本では、子どもたちの甲状腺癌症例数は、100万人あたり、ほんの1例か2例でしたが、現在の福島では、検査を受けた子どもたち約300,000人のうち、100人以上が確定症例または疑い例と診断されています。

ムトウ・メグミさんの娘、ナナさんは甲状腺のしこりが大きくなっていないか検査するために、スキャンを受けてきました。症例数は少ないものの、しこりが癌に進展する恐れがあります。

ムトウさんは、腫瘍の原因が20113月のフクシマ核惨事による高レベルの放射線であると確信しています。

AUDIO: Four years after Fukushima disaster, long term health implications dominate concerns (AM)【オーディオ】フクシマ惨事4周年、長期にわたる健康不安で頭がいっぱい(午前ニュース)

「わたしは怒っています。当局者らは本当の危険を隠蔽し、今ではもっとたくさんの子どもたちが[癌と]診断されています」とムトウさんはいいました。

検査技師は、福島の癌急増を検証する必要があるといいました。

科学者の一部は、増加したのは、単に感度のよい装置を使って、数多くの検査をこなしたからであるにすぎないと述べました。この見解は国連報告に後押しされていますが、他の信頼できる科学者たちは、甲状腺癌の急増は重要であり、徹底的に検証しなければならないといいました。

Inside the tsunami-hit power plant 津波に襲われた原発のなかで

Almost four years after the Fukushima disaster ABC correspondent Matthew Carney tours its crippled power plant as Japan prepares to restart its nuclear industry. フクシマ惨事4周年に間近、日本は再稼働の準備を進めているが、ABC通信員、マシュー・カーニーが損壊原発の現場を取材

甲状腺癌は核災害から45年ほどたってから発症すると予想されています。

チェルノブイリでは、約6,000人の子どもたちが甲状腺癌を発症しましたが、福島よりも大量の放射能が放出されました。

ムトウさんは、娘さんと息子さんがフクシマ放射性フォールアウトに被曝してから、他の子どもたちと同様、変わってしまったといいました。

「二人は体に発疹ができ、鼻血を出しました。息子の白血球数が減少しましたし。二人とも、驚くほど疲れやすくなりました」と、ムトウさんは話しました。

「今はまだ癌になっていないかもしれませんが、二人とも、甲状腺に複数の結節があります。ほんとうに心配です」

ムトウさんは、県と政府を相手に提訴した約100名の福島県民のひとりです。

提訴した人びとは、県と政府が子どもたちを守らなかったと主張し、政府や東京電力が放射線レベルと安全について彼らに告げることを信用していません。

そこで彼らは、独自に放射線量測定を実施しました。彼らは福島市の学校の近くで、東京の約100倍、1時間あたり3マイクロシーベルトの放射線量を記録しました。

コンノ・スミオさんは29年間にわたり原発で義歯として働いてきましたが、放射線量レベルを検証する必要があるといいます。

「わたしは検証し、事実を社会に伝えなければなりませんので、訴訟事件の申立人に加わりました」と、コンノさんは述べました。

4年たったいまでも、子どもたちが生活していたり、学校が近かったりする場所が除染されていない地域があります」

PHOTO: Smoke rises from the earthquake and tsunami damaged the Fukushima nuclear plant on March 14, 2011.(DigitalGlobe: AFP)【写真】2011314日、津波で損傷した福島第1原発から立ち上る煙

コンノさんは、自宅は放射線量レベルが途方もなく高いので自宅に帰ることはできないだろうといいます。

「わたしは災害のために浪江の故里を失い、未来を見通せません」と、コンノさんはいいました。

「大勢の人たちが意気消沈しており、孤立感を味わっています」

福島県は、2011311日災害に由来する1,800件以上のストレス関連死を認定しています。

ムトウさんは、家族を福島県外に移住させたいと思ったが、できなかったといいました。

「福島は豊かな農業県でしたので、親戚や友だちにいただいた地元産のもので暮らしていましたが、わたしはいま、他県産の食品を買っています」と、ムトウさんはいう。

「高くつきますので、八方ふさがりです」


初出:2015311802

写真パフォーマンス『ボディ in #フクシマ』制作ノート:災害進行地帯の旅 @JapanFocus

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アジア太平洋ジャーナル/ジャパン・フォーカス

アジア太平洋…そして世界を形成する諸勢力の批判的深層分析

アジア太平洋ジャーナル Vol. 13, Issue 9, No. 4, 201539

『ボディinフクシマ』制作ノート:災害進行地帯の旅
The Making of “A Body in Fukushima”: A Journey through an Ongoing Disaster

ウィリアム・ジョンストンWilliam Johnston (撮影・執筆)
尾竹エイコEiko Otake(パフォーマンス)


『ボディ・イン・フクシマ』は、福島第一原発の周辺で演じる尾竹エイコをウィリアム・ジョンストンが撮影した静止画像と、エイコがその静止画像を編集したビデオ構成からなる進行中のプロジェクトである。以下の本文中に代表的な画像とビデオを組み込んである。

『ボディ・イン・フクシマ』2014年冬。ビデオ完全版リンク


201311月のある日、わたしが電話にでると、エイコが「ビル! 福島に行って、常磐線の駅でわたしが演じるのを撮影する考えはどうかしら?」と興奮していうのが聞こえた。パフォーマンス・デュオ、エイコ&コマの片割れとしてのほうで名が通るエイコとわたしはここ数年間、教室でコンビを組んで仕事し、それまでによく知り合っていた。わたしたちは2つの講座「日本と原爆」と「山頂除去石炭採掘」で共同授業し、運動訓練と歴史・環境研究を組み合わせていた。わたしたちは二人とも、これらと関連項目に年来の関心があり、日本の311三重災害について長広舌をふるった。2011311日の地震と津波からほどなく、東北の人たちを思うわたしたちの関心について話し、進行中のフクシマ核惨事に対する不安な気持ちを分かちあった。また、わたしは、彼女が311からほんの5か月後に友人と福島を訪問していたことを知っていた。だが、この新提案はわたしにとって、不意打ちの驚きだった。

その年早く、フィラデルフィア、ペンシルヴェニア美術アカデミーの理事長、ハリー・フィルブリックがエイコ&コマを名高い30番街駅公演に招いていた。しかし、コマは足首損傷を患っており、エイコは彼女の経歴で初めてのソロ作品の創作を決心した。

エイコはフィラデルフィア駅の壮麗さを思うと、フクシマ近くの常磐線沿いに見た、見捨てられた駅について改めて考えた。

エイコは、あの当時、何か所かの駅は予見できる将来に再び使われることはないだろうと考えていたのを思いだした。それらの駅それほど遠くはない過去、通学する子どもたち、通勤客、買い物客、観光客、旅行客で賑わっていたのだ。彼女は30番街駅のホールでスーツを着たビジネス男女やスーツケース携行の旅行者らを眺めていて、「わたしがこの大理石の床に穴を開け、まるでフクシマに届く井戸のように掘り下げていったら、どうなるかしら。その穴は、アリスの不思議の世界の別宇宙に行くための通路になる」と考えた。フィラデルフィア公演の前に福島の駅で踊ることによって、「ふたつの場所の距離を伸縮自在にする」と彼女がいうように、それが可能になるようだった。エイコは後に、「福島の駅の写真と福島とフィラデルフィアで踊っている写真を撮ることを考えた。その方法で、わたしの体がフクシマのかけらを運び、フィラデルフィアの人たちに見せることができると考えた」と振りかえる。旅は、エイコの考えた『鉄道駅のなかのボディ』シリーズの制作ツアーとしてはじまった。

わたしたちは20014114日に待ち合わせて上野発、福島県、いわき行きの列車に乗った。いわき駅でレンタカーを借り、当時、常磐線で行くことのできた最北駅、広野にまず向かい、その駅から、311災害の結果、閉鎖された駅の下見をはじめた。

午後も遅くなっていたが、エイコが最初の演技場に考えていた木戸駅の下見をすることにした。駅は板張りされ、街路は無人で気味悪かった。一見して地震の被害はなく、その内陸深くまで津波は達していなかった。猫が家の前を突っ切って走った。パトロールカーがわたしたちの脇を通ったが、警官たちはなにも言わなかった。歩道の破れたゴミ袋から私信、本、漫画がこぼれていた。木戸は、日本が2002年にワールドカップを共同開催したときに日本のサッカー選手の訓練場に使われたJヴィレッジから近く、無人の通りの街灯にサッカーの図柄があしらわれていた。駅の前に線量計が立っており、木戸を通過し、北西方向の多くの町に拡散した不可視の災害をわたしたちに思いださせる。

わたしたちは翌朝、木戸駅の東側、海岸に近い一帯を車で廻った。道の両側あちこちに巨大な黒ビニール袋が並べられ、ずっと遠くの田畑では、それが二層、三層、時にはもっと高く積み上げられていた。それが放射性の土砂や瓦礫を詰めこんだ1トン袋であることを後で知った。道路の間近に半ば崩れた家屋が建っており、わたしはその私道に車を駐めた。わたしたちは車を降りて、近くを歩きまわった。地震と津波による損傷を受けた家々は、目に見えない放射性の埃で包まれているので、3年近く手付かずのままになっていた。手頃なサイズの一軒家は、正面のガラス張り引き戸が津波で砕かれ、家屋の正面全体が風雨にさらされ、それはこの地区のほとんどすべての家で同じことだった。二階に通じる階段からコンピュータ音声が時刻を告げていた。わたしは、こんなに長く電池がもつものか不思議に思った。他に聞こえるのは、色あせたカーテンを吹き抜ける風の音だけだった。アヒルのぬいぐるみが、いまでは放射性がれきの一片に他ならなくなっているが、割れたガラスの破片のうえに転がっていた。

もう一軒の家は屋根が地震で傷んでいたが、津波の被害はほとんど受けていなかった。修理するまで雨漏りを防ぐために、白い防水シートが砂袋の重しを付けて設置されていた。


わたしたちは車のほうに戻り、駐車した私道に隣接した家屋を探索した。大きな、伝統様式で建てられた家であり、小型の竜巻が一掃したようなありさまのインテリアのうえにそびえる屋根を、自然に形成された巨大で無傷な梁が支えていた。家財道具は完全な無秩序状態で散乱していた。ひっくり返り、倒れた柱で串刺しになったアップライト・ピアノの前の棚に、人形類、その他のものがいまだに鎮座していた。居間だったに違いない部屋に2脚の椅子が設置され、それに座り、素敵な庭だったはずの地所を眺めることができた。家の主たちが帰宅して、一時、座っていたに違いない。わたしは、彼らが味わった思いの丈を想像できるだけだった。

通りを挟んだ向かいの家は、同じほど大きく、優美だった。正面はやはり津波に襲われていた。隅の柱は流失していたが、屋根は大きな梁で支えられて無傷のまま残っていた。がれきのあいだに写真が一枚落ちていて、そのガラスは砕け散っていた。だが画像は判別できた。よき時代、おそらく1970年代か1980年代に撮影された地区航空写真であり、おびただしい数の家が群集している。わたしは帰宅後、そこは破町とそのものズバリの地区名、おそらく過去の津波の名残で呼ばれていることを知った。


わたしたちはたがいに顔を見合わせ、二人とも、わたしがその場でエイコが演じている画像を何枚か撮影する必要があると了解した。壊れた家は、元の「ボディ・イン・フクシマ」の意図から外れているが、なぜか場がわたしたちの注目を要求していた。それがプロジェクト全体の転機になった。わたしたちは常磐線の駅を最終目標に定めつづけていた一方で、ほかの注意を惹くロケーションも探した。そういう場所はたくさんあった。わたしたちはその日、2014115日の残り時間を、木戸から竜田へ、そしてさらに北の富岡へと旅して費やした。わたしたちは夜ノ森駅を見て、その日を終えた。わたしたちが訪れた他のすべての場所は、短期訪問者を受け入れていたが、夜の森は入域許可区域の境界のすぐ向こうにあった。わたしたちはそれを正当な理由と考え、短時間の滞在で済ました。


わたしたちの千秋楽は117日、晴れあがり、寒い日だった。最初の目的地は新地の駅だった。そのロケーションに向かって、GPSに従って、道を進んだ。駅と思しき現地になにもなかったので、わたしはGPSシステムに問題があるに違いないと思った。だが、そこは実際に正しい場所だった。新地駅は津波で徹底的に破壊され、放射能の影響を受けた区域の外だったので、完全に解体されていたのだ。避難区域の内側にあれば、富岡駅のように、建っていたはずだ。わたしたちはそこから北隣の駅、坂元に向かった。その駅も修理不能なまでに津波の被害をこうむって、解体され、野原のうえにアスファルト舗装のコンクリート製プラットフォームが残っていた。プラットフォームの前に小さな銘板が設けられ、駅の改札口があった地点を示していた。風は冷たかったが、エイコはそこで時間を延長して演技した。わたしたちは翌日、車を内陸深く走らせ、福島第一メルトダウン現場の北にある駅を訪問できるように、放射能汚染された全域を迂回した。わたしたちは午後、避難区域、あるいは婉曲的な日本語で「帰還困難区域」の内側にある浪江のすぐ北の駅、桃内に到着した。その駅は地震で少しだけ損害を受けていたが、津波到達地点からはたっぷり離れていた。わたしたちはその頃までに、仕事のリズムをつかんでいた。わたしがエイコの演じる場所を提案すると、彼女はそれに応じるか、別の場所を提案し、少し考えてから、衣装を選んだ。ある場所の可能性を使い尽くすか、わたしたち自身が消耗すると、次の場所に移動した。短い冬日の日光は、わたしたちが仕事を終える前にたそがれた。


最後に訪れた駅は駒ヶ嶺だった。まだ寒く、風が強かったが、エイコはほの暗くなるまでカメラの前で演技した。


わたしたちはロケ地間を移動する車中で、沈黙していることが多かった。いまは無人になっている家に住み、なにもなくなっている鉄道駅を行き来していた人びとの多くは二度と帰ってこないという認識に、わたしはいたくこころ動かされていた。4年後のいまでさえ、避難者の多くは「仮設」住宅暮らしをしている。帰還の可能性を完全に諦め、国内各地に移っていった人たちもいる。元の住人はいっときに数時間だけ自宅を訪れることができたが、家財が無傷であっても、放射能のため、持ちだして使えない。避難区域の外側、東北の大部分は、再建途上にある。だが核メルトダウンは人災であり、核エネルギー推進者たちが約束したことは決して実現しない。いざ事が起こると、彼らの主張では、まさに想定外だったということになる。だが、この言い分はそらぞらしく聞こえた。原子炉を設計し、運営した技術者や経営者らが、この種の事故は起こりえないと想定すると意固地になって決めていたと言っておいたほうが無難であるようだった。原発計画は企業利益に深く根ざしていたのだろう。原子炉設計案を承認した政府の規制当局は、そのような想定を是認したのだ。

フクシマのメルトダウンはこの観点において、より大きな流れを反映していた。攻撃と傲慢になって噴出した怒りと無知が20世紀の前半を支配していたとするなら、強欲と無知がその世紀の後半を支配するようになり、いまも続いている。第一次と第二次の世界大戦は少なからず、現実と空想上の不正行為によって勃発した。諸国民のほぼ全員が、自国のため、だがとりわけ自国の犠牲者のため、死と破壊をどうにも避けられない帰結として受け容れ、戦争遂行努力にわが身を投じた。1945年以降、アジア各地で数えきれなく残酷な戦争がつづいていた一方、ヒロシマ・ナガサキのあと、70年間にわたり核戦争は回避された。人びとは同時に、際限のない経済成長と膨れ上がる一方の富の狂気を無視するようになった。核エネルギーは、どの経済大国であっても、必要なだけの電力を約束するように思えた。核エネルギーの推進者らは、世界中の原子力発電施設で数多く大小の事故が起こっていたにもかかわらず、安全だと誓約し、今日にいたるまで、そのように言い張っている。日本初の大事故は、福島第一原発3号機が7時間にわたり制御不能に陥った1978年のものである。原子炉は首尾よく制御を回復したが、事故は2007年まで隠蔽されていた。原発支持者のなかに、炭素排出量を削減できるという人が多い。それはたぶん本当なのだろうが、とりわけ地震が頻発する国で、原子力は100パーセント安全には決してならない。フクシマでじゅうぶん浮き彫りになっているように、爆発と事故は環境と人間に対する惨事をもたらしうる。また、危険性を隠したい連中によって、核の危険性に対する無知が醸成されてきたという事実を無視するわけにはいかない――日本国民を原子力に対して心穏やかにさせるため、1990年代に創案されたキュートなマスコット、プルトニウム少年を思い出してみよう。


わたしたちは118日に福島を離れ、作家であり長崎原爆の被爆者、林京子を訪問しにそこから直行した。わたしたちが制作したイメージを彼女がどのように見るか、エイコとわたしは緊張していた。林さんは画像10枚の選集を見終わると、「あなたが写真のなかにいるので、わたしはたっぷり時間をかけて、それぞれの情景を見ることになります。細かい点までじっくり見せます。どうしてエイコがここにいるのか、どうしてここにいると決めたのだろう、どうしてここに身を置いたのだろうと、あれこれ考えることになります」といった。

ハリー・フィルブリックは画像集を見るなり、ペンシルヴェニア美術アカデミーで展示したいといった。エイコが他のキュレーター[学芸員]たちに画像集を見せると、2014年秋と2015年冬、コロラド・スプリングズの現代美術ギャラリーズとウェズリアン大学[コネチカット州ミドルタウン]を会場に、3回の展覧会を開催する予定がたちまち決まった。

エイコは米国に帰り、わたしは日本に滞在して、次のプロジェクトの調査をしていると、ほどなくしてエイコがわたしに連絡し、夏に福島を再訪するつもりはないかと訊ねた。スケジュール上の困難は付きものだが、それこそしなければならないことだと、わたしにはわかっていた。

わたしたちは7月下旬5日間の日程で、1月に行った場所の多くを再訪した。あれこれ変化したものもあったが、福島のいろいろな場所が予見可能な将来にわたり核の荒れ地になると運命づけられているのは余りにも明らかだった。わたしたちは終日、仕事し、夜、その日の画像を評価した。冬に撮影した画像は2,000枚に満たなかったが、夏にはその倍以上の画像を撮影できた。
『ボディ・イン・フクシマ』2014年夏、抄録。ビデオ完全版リンク
このプロジェクトを遂行するさいの、わたしの願いは、とりわけ福島の人びとに対して、だがまた福島を超えて、核の力がもたらしてしまった苦しみに注目を惹くことであってきた。苦しみそのものを目撃することによって、目撃したものについて、じっくり考え、変化をもたらす一助になれる。エイコのパフォーマンスはわたしにとって、福島第一原発メルトダウンに被災した人間と生きとし生けるものの苦痛を可視化し、わたしたちが疎遠なままであったはずのことがらについて、ある種の身近さを備えた証人になるのを後押しするものだった。多くの人たちは、惨事が進行中であり、またこれから長期にわたり進行中であることを忘れてしまい、あるいは忘れたがっている。安倍政権が日本の原子力発電所の送電網復帰に全力をあげている、このとき、企業利害関係者とその政府内支援者らはわたしたちの忘却に賭けている。そのことこそが、このプロジェクトを終わりのない旅にしているものなのだ。エイコとわたしがこれを続け、再び核エネルギーの真の代価の証人になることを、わたしは望んでいる。

【筆者】

ウィリアム・ジョンストンWilliam Johnstonは、コネチカット州ミドルタウン、ウェズリアン大学の東アジア研究・社会科学教授であるが、2015年から2016年にかけて、ハーバード大学の日本研究エドウィン・O・ライシャワー客員教授を務めている。著書に、Geisha, Harlot, Strangler, Star: A Woman, Sex, and Morality in Modern Japan. New York, Columbia University Press, 2005[『芸者、売春婦、大旦那、スター~女、セックス、現代日本の倫理性』、The Modern Epidemic: A History of Tuberculosis in JapanCambridge, Council on East Asian Studies Publications, Harvard University, 1995[『近代の疫病~日本結核史』]など。また、論文に「封建漁民から列島の人々へ~網野善彦の歴史叙述の旅路」(From Feudal Fishing Villagers to an Archipelago’s Peoples: The Historiographical Journey of Amino Yoshihiko)『現代思想』 (revue de la pensé d’aujourd’hui), vol. 41, no. 19, 2014, pp. 232-249.

ジョンストンは、19世紀の日本におけるコレラ流行の歴史に関する著作を執筆中である。彼の写真作品は、フィラデルフィアのペンシルヴェニア美術アカデミー、コロラド・スプリングズのコロラド州立大学・現代美術ギャラリーズで展示され、ニューヨーク・タイムズなど、多数の出版物に掲載されている。

【パフォーマー】
尾竹エイコEiko Otakeは、日本で生まれ育ち、1976年以来、ニューヨークで活動する運動主体の総合パフォーマンス・アーティスト。40年間以上、エイコ&コマとして世界で活躍している。エイコとコマは50を超える作品を共同制作し、セット、衣装、音響、メディアを手作りしている。エイコは目下、201410月にフィラデルフィアのアムトラック鉄道駅における12時間公演“A Body in a Station”を手始めとしたソロ活動プロジェクト“A Body in Places”を展開している。このプロジェクトとともに、写真家ウィリアム・ジョンストンと共同制作したコラボ写真展“A Body in Fukushima”が巡回している。エイコは、マッカーサー・フェローシップ研究奨学金の受給者であり、サミュエル・H・スクリップス・アメリカ舞踏フェスティバル賞、ダンス・マガジン賞を授かり、USAフェローシップとデューク・パフォーマンス・アーティスト賞の初代受給・受賞者であり、ウェズリアン大学とコロラド大学で授業を定期的にこなしている。
【推奨されるクレジット表記】

William Johnston with Eiko Otake, “The Making of ‘A Body in Fukushima’: A Journey through an Ongoing Disaster,” The Asia-Pacific Journal, Vol. 13, Issue 9, No. 4, March 9, 2015.
#原子力発電_原爆の子: 写真パフォーマンス『ボディ in #フクシマ』制作ノート:災害進行地帯の旅
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アメリカン大学教授が暴いた米国メディアのフクシマ過小評価・歪曲報道

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研究が暴いた米国メディアのフクシマ過小評価報道
Study Finds US Media Downplayed Fukushima Daiichi

2015313

新たな研究が、福島第一原発核惨事に関するメディアの報道姿勢を究明した[出処(英文)]。同研究は、主要報道機関が読者と情報源を立脚基盤にしながら、組織的に災害の影響を過小に評価して報道し、災害のきわどい側面を無視していることを明るみに出した。

同研究はまた、メディアに介入し、報道内容をコントロールする連中に見る重要な歪曲を指摘した。

「研究によって、企業と政府機関がメディアに限度をわきまえずに介入し、事態を歪曲させていることが示されているとパスカル教授はいう。惨事勃発後の歳月においてさえ、政府や企業の広報関係者が発言報道の大部分を独占しているのだ。また、地域の対応――たとえば、学校給食の放射能から子どもたちを守るために結束する親たちの動き――についてのニュース解説などはほとんどお目にかからない」(強調は当サイトによる)

これは災害初期の問題であり、業界の利害関係者が惨事を引き起こしながら、情報源の多数派を占めたり、メディアによるインタビューの相手になったりしていたのだ。この問題は今日も相変わらずつづき、米国における4周年メディア報道の十把一絡げが、インタビュー対象に業界広報担当者を使い、手厳しい質問を聞きそびれていた。米国で2011311日にオンエアされたボストンNPRニュース・ステーション“Here & Now”ラジオ・インタビュー[4 Years After Fukushima, How Is The Nuclear Industry Faring?]は、核産業のロビイスト[訳注:ジョナサン・コブ(@WNAJonathanCobb)、世界原子力協会の気候変動に関する顧問]とお話していた。インタビュー記者はヘボ投球の缶詰みたいに聞こえる質問を繰り出し、ロビイストがやすやすと業界の言い分を押し付けるのを許していた。筋書きの余談として、核問題機関(NIRS=放射線医学総合研究所)の声明に少しだけ触れていた。この類いの報道が、米国におけるフクシマ報告の典型例である。

同研究はさらに、政治的惨事の様相、一般人が受け取る筋書きと情報に介入する営為を指摘する。

「主流メディアは――印刷物であれ、オンラインであれ――一般住民に対する健康リスクを報告したり、官僚とその御用専門家のお話しに異議を唱えたりするようなことは、ほとんどなにもしていません。災害に伴うリスクに関する論争は、異常事態の存在とその意味、そしてその影響をコントロールするための政治闘争なのです。惨事に関する知見の報道のありかたは、人びとの命に対する身体的な影響を左右するよりも、力関係を動かすのです」(強調は当サイトによる)


天災というものは、ある程度、こうした問題を引き起こすものだが、政府が利害関係を持ちながら、国民の安全をはかるために規制しているはずの業界に由来する人災となれば、政治化しがちであるのは、なおさらのことである。




Written by 






Science Daily® 今日の科学――最新研究ニュース情報源

フクシマ核惨事による住民の健康リスクを最小評価する報道
News coverage of Fukushima disaster minimized health risks to general population

Date: 2015311

Source: アメリカン大学

Summary:

A new analysis finds that U.S. news media coverage of the Fukushima disaster largely minimized health risks to the general population. Researchers analyzed more than 2,000 news articles from four major U.S. outlets.

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2011年、福島第一原発の核惨事勃発から4年、損壊した施設からいまだに毎日3トンの放射能汚染水が海中に放出されているが、米国メディアがこの惨事を大見出しで報道することはもはやない。[福島]県の住宅、文教、ビジネス地区が居住不能になっており、おそらく永久に住めないようである。それなのに、米国のメディアは社会がいまだに抱えているリスクを報道しない。

アメリカン大学の社会学教授、セリーヌ=マリー・パスカル(Celine Marie Pascale)による新たな分析は、米国の報道機関による核惨事に関する報道の大部分が一般住民の健康リスクを最小限に評価していたことを明らかにした。パスカル教授は、2011311日の惨事勃発時から2013311日の2周年記念日までの2年間、米国の主要メディアが報道した2,000本以上のニュース記事を分析した。日本国内または国外の一般住民に対する健康リスクに焦点を絞った報道は、6パーセント――129記事――だけだった。それどころか、損壊した原発の労働者についていえば、人間のこうむるリスクが歪曲されていた。

不適当な報道姿勢

パスカル教授はリスクの社会構造および21世紀におけるリスクの意味を研究しているが、「一般住民のリスクを論じる記事がいかにも少なく、たとえ論じたとしても、判で押したようにリスクを低いものに描いているのを見るのは、衝撃的でした」と述べた。「わたしたちは、一流の報道機関が、崩壊した福島第一原発から発散される放射線よりも宇宙線や岩石の放射線のほうが危険であると主張しているありさまを見ているのです」

パスカル教授は、新聞2紙、ワシントン・ポストとニューヨーク・タイムズ、およびオンライン報道機関として全国的に名高い2サイト、ポリティカとハフィントン・ポストのニュース記事、論説、投稿記事を調査した。これら4社の報道機関は米国で最も名高いだけでなく、テレビのニュース番組やトークショー、他の新聞やブログで最も盛んに引用され、ソーシャル・メディアでもよく取り上げられているとパスカル教授はいう。彼女は、だから、メディアがリスクを描く様相を理解すれば、国民の関心事と話題が歪曲されている様相を洞察できると付け加える。

パスカル教授の分析は、放射能汚染による一般住民の健康リスクを最小化する報道機関の主だった3つの方法を特定した。報道記事は、①日常的で低レベル形態の放射線と比較し、②長期にわたる研究が不足しているので、リスクをわからないと決め付け、③支配的な話法に異を唱える専門家や住民が表明する懸念を大幅に除外していた。

研究によって、企業と政府機関がメディアに限度をわきまえずに介入し、事態を歪曲させていることが示されているとパスカル教授はいう。惨事勃発後の歳月においてさえ、政府や企業の広報関係者が発言報道の大部分を独占しているのだ。また、地域の対応――たとえば、学校給食の放射能から子どもたちを守るために結束する親たちの動き――についてのニュース解説などはほとんどお目にかからない。

リスクのグローバル化

パスカル教授は、一般人が批判的なニュース消費者である必要性を彼女の調査結果が示しているという。専門家の知識は――とりわけ災害時に発生する情報の真空状態において――虚偽情報や不明確状況を仕組むために悪用されかねない。

「主流メディアは――印刷物であれ、オンラインであれ――一般住民に対する健康リスクを報告したり、官僚とその御用専門家のお話しに異議を唱えたりするようなことは、ほとんどなにもしていません」と、パスカル教授は語った。「災害に伴うリスクに関する論争は、異常事態の存在とその意味、そしてその影響をコントロールするための政治闘争なのです。惨事に関する知見の報道のありかたは、人びとの命に対する身体的な影響を左右するよりも、力関係を動かすのです」。

福島第一原発の核惨事が、すべての災害と同じように、地震と津波の帰結であることは明白だが、広範な規模のリスクを生みだしたものは、政治的、経済的、社会的選択の結果でもあった。21世紀になって、「リスクのグローバル化」がますます進展しているとパスカル教授は論じる。大惨事には、人間、環境、経済に対して、大規模で長期にわたる影響をおよぼす可能性が潜んでいる。

「災害に対する人びとの理解は、これからもメディアに仕組まれつづけるでしょう。メディアの人たちがリスクの存在と災害の特質を歪曲あるありかたが問題なのです」と、パスカル教授はいう。



記事出処:

上掲記事は、アメリカン大学サイト掲載の記事にもとづいています。オリジナル記事の筆者はレベッカ・バスです。記事内容を編集したり、短縮したりしていることがあります。


American University
[訳注:この記事はScience Daily®記事の原典であり、同じ内容]
American University sociologist’s new research finds few reports identified health risks to public
·         By Rebecca Basu

·         March 10, 2015

アメリカン大学の社会学者による新研究が、フクシマ核惨事報道に関して、一般人の健康リスクを特定するニュース記事がほとんどないことを明らかにした。

Associate Dean for Undergraduate Studies
Department of Sociology


アーニー・ガンダーセン「フクシマ: 二度と繰り返してはならない人災」

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エコロジスト ECOLOGIST
フクシマ: 二度と繰り返してはならない人災
Fukushima: an unnatural disaster that must never be repeated

アーニー・ガンダーセン Arnie Gundersen 2015311

4年前の今日、フクシマで勃発した破局的惨事は天災でなかった、とアーニー・ガンダーセンは書く。東京電力と規制当局は津波の危険性に気づいていたが、安全よりもお金を優先した。核の力は、いまだに一夜にして一国を破壊しかねない唯一のエネルギーである――いまこそ、廃絶のとき!

2011年3月16日、福島第一原発の被災状況。左:3号機、右:4号機
Photo: deedavee easyflow via Flickr (CC BY-SA 2.0).
福島第一原子力発電所で311日の悲劇的な三重メルトダウンがはじまってから、4年たちました。収束のときは、視野に入ってきません。
福島第一原発の惨事は人災だった、これをはっきりさせておきましょう。東京電力と実に世界の核産業全体は、あたかも自分たちが天災の被害者であるかのように振舞っていますが、実のところ、核産業はこの茶番劇の真犯人なのです。

アメリカの核企業、ゼネラル・エレクトリックとエバスコが福島第一原発を建造したとき、彼らには巨大津波が現実のリスクであることがわかっていました。

想定しうる最悪の事態に備えて設計すれば、原子力の採算が合わなくなるので、核産業は資金を節約し、経済性を安全性に優先させたのです。これまで4年間にわたる福島第一原発のゴタゴタ続きは、このような歪んだ優先順位の結果です。

東京電力、日本政府の規制当局、世界の核産業ははなはだしく、放射能の初期放出量を過小評価し、惨事の規模を過小評価し、不作為の影響を過小評価しました。日本国民は、これからの数十年にわたって、その代価を支払うことになるでしょう。

人々を守るのか? あるいは、核産業を守るのか?

東京電力、あるいは日本政府が無能なのでしょうか? わたしは、そうは思いません。わたしはこの4年間を振り返って、東京電力、日本の規制当局者、世界の規制当局が切に原子力の存続を願うあまり、東京電力の救済に全力をあげ、公僕として奉仕するはずの国民を忘れてしまったのだと考えます。

スリーマイル・アイランド、チェルノブイリ、そしてまたもや福島第一原発――破局的事故が起こるたびに、事故対応に当たる企業、諸国政府、当局機関は、人びとを守るために働くのではなく、原子力の稼働継続と未来の可能性を守るために働きました。

この事故処理の不手際は、原子力、融資機関、業界収益の継続に利害関係のある当局でなく、人びとの安全を最優先する組織が緊急対応の指揮をとらねばならないことをわたしたちに見せつけました。

世界の核産業、規制当局、諸国政府が核の安全神話の明白な崩壊による惨状を最小化しようと企てたのは、なぜでしょう? 答は、お金にあります。

世界中どこでも、銀行と政府は原子力発電所の稼働継続による金銭的成功に莫大な投資をしており、自国民に押し付けられる健康への影響や個人的損失は眼中にありません。

一夜にして一国を滅ぼしかねないのは核の力だけ

世界の諸国政府は福島第一原発の三重メルトダウンを受けて、将来の世代の健康と福利を顧慮することなく、金がかかり、リスクのある原子力を押し付けることによって、自国民との社会契約を破棄しました。日本国民と日本政府の社会契約は、おそらく今後の数十年間、間違いなく無効になりました。

1965年の福島第一原発構想時に津波リスクを無視したことにつながったのと同じ、歪んだ意思決定過程が、いまだに新しい原発の建設と旧い原発の稼働に適用されています。核の安全神話に対する反証となった5度のメルトダウンが過去35年間に起こっているにもかかわらず、古いパラダイムは変わらず、これからも変わらないようです。

あらゆる発電方式のうちで、核テクノロジーは一夜にして一国の枠組みを破壊しかねない唯一の方式です。ミハイル・ゴルバチョフはその回顧録で、ソ連邦を崩壊させたのはペレストロイカ[改革]ではなく、チェルノブイリ事故だったと述べています。

菅直人、小泉純一郎、中曽根康弘、野田佳彦、鳩山由紀夫といった、リベラルから保守まで網羅した5名の元日本国首相が原子力に反対しています。また最近、ヨーロッパで、ドイツの元物理学者であるアンゲラ・メルケル首相が国を率いて、2022年の原発稼働ゼロをめざしています。

政治意思さえあれば、諸国はいま一度の核惨事の勃発を待たずに原子力から自国を解き放つことができます。

福島第一原発の悲劇的事故勃発のさい、日本国首相だった菅直人は(2011年ニューヨーク医学アカデミー『終わりなき危機』シンポジウムで)次のように述べています――

「わが国の国土の半分を失い、国民の半分を非難させるリスクを考慮した結果、わたしの結論は、原子力発電所を保有しないことが最も安全なエネルギー政策であるということです」

[訳注:本文中のリンクは割愛しました。原文を参照してください――http://www.theecologist.org/blogs_and_comments/commentators/2787281/fukushima_an_unnatural_disaster_that_must_never_be_repeated.html

【筆者】 


アーニー・ガンダーセン(Arnie Gundersenは、米国の著名な核エンジニアであり、内部告発者。ウェブサイトFairewinds.comによって、数百万の人びとに知られる。今週、2011311日、日本の福島第一原子力発電所で勃発した悲劇的な三重メルトダウンを記念して、庶民院[英国下院]の集い、その他の災害に関する催しで講演するために英国に滞在している。


Event tonight:  Arnie Gundersen and Dr Ian Fairlie, international expert on radiation and health, are both speaking in Keswick, Cumbria, at the Skiddaw Hotel - 7:30 - 9.30pm. Event organised by Radiation-Free Lakelands.

Reference links, books, articles

Crisis Without End, From the Symposium at the New York Academy of Medicine, The New Press, ISBN 978-1-59558-960-6, 2014

The Ecologist: 'Fukushima and the institutional invisibility of nuclear disaster', Dr. John Downer, December 20, 2014.

The Ecologist: 'All fouled up - Fukushima four years after the catastrophe', Dr Jim Green, 11th March 2015.


VICE:原発20キロ圏にひとり生きる男 Alone in the Zone @Fairewinds

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FAIRWINDS Energy Education
原発20キロ圏内にひとり生きる男

2015224

【解説】キャロライン・フィリップスCaroline Phillip

フェアーウィンズ・エネルギー教育理事


「寂しいなんての、通りこしてたな」――動物や自宅を見捨てられず、かつては賑やかだった町にひとり生きる農民、松村直登はいう。黙示録的な破局後の人びとが退去したゴースト・タウン、福島第一原発原子炉25マイル圏内の富岡町と飯舘村をVICEインターナショナル制作20分ビデオ『原発20キロ圏内に生きる男- Alone in the Zone』が特集。


米国人として、このビデオを閲覧すると、ハリケーン・カトリーナの大惨事、そして避難を強いられたニューオーリンズ内外の非常に多くの人々のことが頭をよぎる。フクシマの核メルトダウンが引き起こした破壊はハリケーンのそれと同じほど骨身にこたえるものだが、両者の大きな違いは、誰にも見ることのできないものの有無である。福島第一原発の放出した毒性の高い放射能は永続的に残存し、かつては美しかった農業地帯を数百年は汚染しつづけるだろう。核の三重メルトダウン勃発から4年後のいま、原子炉の暗部にあるものを、なにもかも廃棄する作業は遅々として進まず、収束の日は視野に見えてこない。

直登さんは富岡町の農民であり、彼の畜産農場に戻ってみると、メルトダウンからこのかた、ダチョウたちが自由気ままに走りまわっていた。直登さんはこの野性的で首の長い鳥の背中に腕を心地よさそうに回しながら、家族の避難行を振り返り、一行の身が汚染されており、家のなかに放射能を持ちこまれるのを恐れた義理の妹に宿泊を断られたいきさつを物語った。直登さんは福島第一原発メルトダウンから2年後、セシウム汚染レベルが高いにもかかわらず、自分の農場に戻った。直登さんは放射線管理地帯内の動物の殺処分に反対だという。彼は食肉に使うための屠殺には理由があると信じているが、汚染を理由に屠殺することに道理がないという。「むやみに人をバタバタ殺せるか?」と問いかける。

だけど、読者のみなさんは直登さんが自分の家畜にこだわる単細胞の農民だとお考えかもしれないが、[避難]区域からのもう一人の農民、長谷川健一さんのことばに、「みな、牛というと同じに考えちゃうのね。ところが、まったく違うのよ。まったく…」という。健一さんの8人家族はかつて、天職である酪農を支えていた土地に建つ風格のある家に住んでいた。彼はいま、他の福島県の避難民と一緒に、2倍幅のトレーラーを連ねた車列にそっくりな仮設住宅に住んでいる。健一さんは、科学者たちが来て、彼の村、飯舘は放射能で危ないと村長に告げたが、政府が安全であると住民を安心させるばかりだったと振りかえる。長谷川さん夫妻は重大な放射線被曝について科学者の言い分が正しく、村役場が間違っていたとわかると、被曝し汚染された牛に対して毎日、搾乳しては毒を帯びた牛乳を捨て、できるかぎりの世話をした。悲しいことに、夫妻はやがて愛しい家畜をもれなく殺処分することを強いられた。

ひらた放射能検査センター事務長の二瓶正彦さんは、セシウムを体内に取り込むと、害になるので、被曝線量にはたいして意味がないと説明する。福島第一原発のオーナー企業、東京電力株式会社が漏出させた放射性物質が福島県の土壌を汚染し、土地を使えなくしてしまった。それにもかかわらず、東京電力はその放射性フォールアウトを「無主物」、所有主のない動産であるとして、責任を認めることを拒否していると、核物理学者である小出裕章さんはいう。

放射線管理地帯では、わが身を汚染に被曝させることなしに、飲み食いできないので、わたしたちのたいがいにとって、松村直登さんが農場に帰還したことは想像を絶しているが、無期限に自宅から追い出された長谷川健一さんや他のだれにとっても、そのリスクを身に引き受けることがそれほど理解不能なことではないとわたしはあえていいたい。健一さんはフクシマ核惨事以前の日々を回想して、お孫さんたちが毎日、保育園に行くとき、おじいさんと牛たちに挨拶しにきたと振りかえる。その暮らしは二度と戻らない。残されたものは楽しかった日々の思い出だけであり、健一さんは「もう忘れたいよ」という。

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【付録】

ロサンゼルス・タイムズ「フクシマ4周年 気の遠くなる膨大な規模の放射能除染」

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nuclear news from japan


フクシマ4周年 気の遠くなる膨大な規模の放射能除染
2015317

ジュリー・マキネン Julie Makinen / via latimes.com

東京電力株式会社本店にて、東日本大震災4周年の黙祷(Franck Robichon / European Pressphoto Agency

2015311日】蛍光ピンクとイエローののぼりが路端にはためき、その優しい音が気味悪い静けさを破っている。この土地の家々は固く閉ざされ、通りはほぼ無人であり、かつて米、トマト、キュウリが芽生えていた田畑は作付されていない。

狩俣茂雄はヘルメットとマスクを着用し、車を降りる用意をする。

「『わあ、お祭りのようだ』という人もいます」と、おじさんのような62歳の環境省職員はいう。「それから、旗に『除染作業実施中』と書かれているのを目にするのです」。

同僚が放射線計測器を取り出し、表示を見て、「0.29マイクロシーベルト」という。「それほど高くない」。

狩俣茂雄は、福島第一原子力発電所の約20キロ北、避難区域内のこの地域における作業――これまでに企てられたなかで、最大規模であり、最大資金を要する放射能除染の一部――の責任者である。

日本がフクシマの2011年メルトダウンの影響を受けて試みていることの規模と複雑さを考えると、気が遠くなる。除染計画は、東京から225キロ北西、福島第一原発の事故に被災した105市町村で実施されている。

日本国民の多くは、この大規模な取り組みをひどい間違いを正すための厳粛な責務であると考えている。他にも、これはドン・キホーテ的な資源の無駄遣いではないのかと疑問に思う向きも、直に被災した人たちのなかにさえいる。

狩俣の一行は、手袋、ヘルメット、胸ポケットに放射線検知器を忍ばせた夜光チョッキを着用した作業員の一団を検分するために、脇道を進む。無人の住宅の庭に新しい土砂を敷きつめている作業員らがいる。隣の住宅では、作業員らが足場に登り、屋根と雨樋の拭き掃除をする準備をしている。

富岡町の除染作業(Ken Ishii / Getty Images

道の向かい側の竹藪の近くで、二人の男たちが、ほぼ風呂桶サイズの2本線入り大型ゴミ袋を支えるプラスチック製の枠を起こしている。二人の背後に同じ黒い袋が数十も並べられ、それぞれに放射能に汚染された土砂、草木の葉、木っ端、その他のガレキが詰められて、予定のわからない日に、いまだ仕様未定の最終処分場へと搬送されるのを待っている。

東北大震災が北日本の基盤を揺るがし、命取りの津波を誘発し、福島第一原発惨事を引き起こしてから4年後、数百平方マイルの土地が放射能のために居住禁止のままである。約79,000人の人びとがいまだに帰還できない。

だが、日本は、政府が簡単に1,000平方マイルを居住禁止区域に宣言し、350,000人の人びとを移住させ、基本的に放射能が数十年または数世紀かけて消えるまで放置すると決めた1986年のチェルノブイリ事故と違って、福島の土地をふたたび居住可能にすることを企てている。これは、前例のない試みである。

個別に除染していく作業に投じられた労力と資金の総計は驚異的である。日本政府はこれまでの4年間で福島第一原発の外部の除染作業に16400億円を支出し、4月からの新年度予算の要求額は4200億円であると、環境省水・大気環境局除染渉外広報室長、筒井誠司はいう。

ピーク時には、約18,000人の作業員が除染に従事しており、2月時点で、その員数は12,000人まで減少した。しかし、南相馬市あたりでは、町の北部――避難指示の出ていない――方面の住民が、あまりにも除染作業員が多いので、朝夕の出退勤、オレンジ色、黄色、青色のパワーシャベル、その他の重機類の現場間移動のため、道が混みあうと苦情をいっている。

作業員による尽力の賜物が例の――550万袋に達し、増える一方の――巨大なズタ袋に詰まっている。その袋が、福島の田園地帯、道路沿い、駐車場、裏庭に散在している。袋には認識票が添付され、バーコードが記されて、当局者らが内容物の種類と放射能レベル――そして袋の耐用期限――を知ることができるようになっている。

景観のいたるところ、袋が積みあがり、作業員たちが散開しており、費用対効果分析に疑問を呈する地域住民もいる。

「除染――事業に終わりはありません。巨額の資金を使っており、おそらく住民が他の地域に再定住するのを助けるのに使ったほうがよいでしょう」と、南相馬市の元職員、星巌(ほしいわお)はいう。多くの放射能避難民は、自宅を失い、移住しなければならないと理解していた津波被災者と違って、自宅がまだ建っているとわかっているので、どっちつかずの状態になっていると彼はいう。

災害のあと、星は避難所業務の調整役をしていたが、1年後に、上司たちが税務課の職務に復帰するように彼に告げると、役人生活をやめてしまった。「わたしは時どき、除染事業がゼネコンの営業部に運営されていると思うことがあります」と、彼はラッキー・ストライクをふかしながら付け加えた。

災害の前でさえ、この地域の人口は急速に老齢化し、若年層は東京や他の中核的な都市に流出していた。帰還を欲する人たちの多くは、年配の市民である。除染事業のおかげで、彼らは帰宅できるようになるかもしれないが、いずれにせよ、彼らの地域社会が数十年内に消滅しないという保証はない。

「すでに諦めている人たちもいます。わたしは大半の人びとが帰還するとは考えていません」と、狩俣は認める。「避難したあと、多くの人たちが帰還を願っていましたが、すでに4年たっており、その数はおそらく半分になってしまいました。長くなれば長くなるほど、減っていくでしょう」

【初出】

ロサンゼルス・タイムズLos Angeles Times 

[ビデオ、スライドショー付き]



NHK WORLD:フクシマ1号炉の核燃料が行方不明の一方、川内原発の再稼働を急ぐ @YouTube

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フクシマ1号機炉心に核燃料見当たらず
Fukushima Reactor No.1 Core Empty







2015/03/19 に公開

1号機炉心の透視画像に核燃料(水も)が見当たらず

2015319日付けNHK WORLDニュース

研究者らによれば、福島第一原発の損傷した原子炉のレントゲン写真のような透視撮影画像によって、炉心に核燃料が残っていないことが判明しました。


この解析結果は、メルトダウンした核燃料の大半が炉心の底を貫通したことを示すシミュレーション結果を補強するものです。

福島第一原発における20113月の核事故のさい、原子炉6基のうちの3基で核燃料が溶け落ちていました。ところが、極めて高レベルの放射能のため、専門家たちは溶融した燃料の位置を特定することもその状態を確認することも妨げられていました。


高エネルギー加速器研究機構、その他の研究機関の専門家たちは、福島第一原発1号炉のレントゲン写真に似た透視画像の撮影に成功しました。

専門家たちは2月以来、原子炉内部を覗き見るために、エックス線技術を使う代わりに、ミューオンと呼ばれるタイプの素粒子を利用してきました。この素粒子は、宇宙線が地球の大気に衝突するときに生成されるものです。


専門家たちは1号炉のそばにある貯蔵プールのなかの核燃料を画像で確認することができました。しかし、メルトダウンが起こった原子炉の炉心内に核燃料は見当たりませんでした。


この画像解析の結果は、炉心内部の燃料の大半が溶け落ちて、炉心を収納する格納容器のなかへと貫通したらしいとするコンピュータ・シミュレーションの結果を裏づけています。

専門家たちは、核燃料の大半が炉心から漏れだしているのが判明したので、原子炉を解体するさいの困難がなおいっそう浮き彫りになったと述べています。
「当然だ、シャーロック」

~~~


IRIDと高エネルギー加速器研究機構は、1号機炉心に核燃料の部分らしいものを発見することができなかったと発表した。

両機構は2015319日、310日まで実施していた「スキャニング」検査に関する速報を公表した。

報告によれば、もともと核燃料集合体が装填されていた炉心に1メートルより長いものがなにも見つからなかった。


ミューオン検出装置が1号炉の北側および北西側に設置された。ところが、そのどちらも核燃料集合体らしいものを検出できなかった。

また、RPV(原子炉圧力容器)の炉心部に水も残っていなかった。これら判明した事実は、溶融した核燃料がすでに一次格納容器の底に溶け落ちている可能性を強く裏づけている。両機構は、溶融燃料がすでに格納容器の外壁の外に漏れだしているかもしれない、さらなる可能性については触れていない。

両機構は1号機使用済み核燃料プールの状態について、「核燃料がプール内に残っていると思われるが、その量は特定されていない」としか結論づけていない。

[付録]東京電力サイトから:


[以上、付録]


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その一方――

九州電力が川内原発の7月再稼働に向けて原子炉審査を申請

2015319日付けNHK WORLDニュース

九州電力株式会社は木曜日の19日、原子力規制庁に申請書を提出しました。


この手続きは、薩摩川内市に所在する川内原発の1号機に関して九州電力が提出した設備設計文書を規制庁が認可したのを受けて、1日後に取られたものです。


検査官たちは、冷却ポンプなどの新規設備が設計通りに建造されているか、また計画通りに機能するかについて、検査することになっています。

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日本の電力会社がさらに2基の原子炉を廃炉に

Japan utilities to scrap 2 more nuclear reactors

2015318日付けNHK WORLD記事


日本の電力2社がそれぞれ1基の原子炉について、政府が勧告する建造後40年限度に近づいていることから廃炉にすると計画しています。

これによって、2011年の核惨事のあとに廃炉になる国内の原子炉の数は、損傷した福島第一原発の原子炉に加えて、5基になります。

九州電力株式会社は18日の水曜日、役員会を開き、佐賀県に所在する玄海原発1号機の廃炉を決定しました。

それと同じ日に中国電力の役員会は、島根県に所在する同社の原発の1号機を解体する決定をしています。

両方の原子炉とも、出力が比較的小さくて、改良コストをかける価値がないと考えられています。政府による規制は4年前の福島第一原発の事故を受けて、電力会社が原子炉を再稼働する前に、コストのかかる安全策の改善を求めています。

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いつものように、転載自由

Ÿ   カテゴリ 非営利団体と社会活動


オーストラリアン紙「わが国仕込みの日本人スパイ」

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わが国仕込みのスパイ

~オーストラリア保安情報庁が日本人を訓練


オーストラリアン紙 THE AUSTRALIAN 2015321

ポールマレイ Paul Maley, 在シドニー・国家安全保障通信員

Source: AFP
日本政府が第二次世界大戦後初の対外スパイ機関を設立しようと動いているいま、オーストラリアの海外諜報機関[ASIA=オーストラリア保安情報庁]は日本人スパイに諜報ノウハウ訓練を施している。

日本政府が、北朝鮮の動き、中国の台頭、イスラム・テロなど、切迫してくる安全保障問題に関する情報を収集するために海外諜報機関の設置を決定して以来、ASISが日本人スパイ候補要員の訓練で中心的な役割を担っているとウィークエンド・オーストラリアン誌が明らかにした。

日本のスパイ機関設置の意向は、ウィキリークスが2011年に公表した電文で注意を引いた。

ウィークエンド・オーストラリアンによれば、公式訓練プログラムの一環として、複数の日本人諜報部員がオーストラリアに派遣されている。

日本はこのような海外諜報機関を備えていないが、日本の安倍晋三首相は積極的で外向き志向の対外・安全保障政策の一環として、海外機密情報収集能力を構築する欲求を表明してきた。

2008年から日本の国家安全保障部局の要員たちがオーストラリアに入国して、日本が諜報能力を徐々にでも構築するために、ASISの訓練を受けてきた。

日本の憲法と外交政策は平和主義に依拠しているので、日本政府が独自にスパイ機関を保有すべきであるとする考えは論争を招く。

安部首相はこの提案を支持しているが、日本の国会と日本国民を彼に同調させる必要性を意識している。

このプログラムは日豪間で緊密化している安全保障・通商関係の一端であり、部分的には台頭する中国に対向する両国共有の欲求にもとづいている。

ウィークエンド・オーストラリアンは、このプログラムで20名以上の士官がすでに訓練されたと推測している。

その全員が、いわゆる「認定済み」、すなわち各人の所属および身分が前もってオーストラリア政府に情報開示されている士官だった。

ジュリー・ビショップ外相は、「諜報機関にかかわる特定の関係の本質」についてコメントしないと述べた。

「しかしながら、オーストラリアの安全保障部局は諸外国のそれと相応する機関の多くと関係を維持しております」と、外相はウィークエンド・オーストラリアンに語った。

「安全保障部局間の協力と協調は、平和と安全保障を維持するための世界的な取り組みに欠かせない要素です」

ウィークエンド・オーストラリアンは、オーストラリアに派遣された日本人士官のうち、数名が、ヴィクトリア州海岸沖のスワン島にあるASIS訓練施設に送られなかったものの、ヴィクトリア州内で訓練を受けたことを把握している。

オーストラリア国防軍(ADF)は150ヘクタールの特殊空挺部隊(SAS)訓練演習用地を使用しており、ASISと合同で作戦を実施していると伝えられている。

ASIS施設のさまざまな装備のなかに、模造のホテル客室と大使館事務所があり、オーストラリアの諜報部員がスパイ技術の習得に使っている。

ウィークエンド・オーストラリアンは、スパイ訓練の提案がASISのニック・ワーナー長官によって提出され、旧労働官庁によって認可されたことを突き止めている。

ボブ・カー前外相は、諜報や安全保障の問題を論じないといって、コメントを拒んだ。

訓練は2008年あたりから数年のあいだに実施されたと推測され、ウィークエンド・オーストラリアンのいう「出来高払い」制で実行された。ウィキリークスが2011年にオンライン公開した電文が、北朝鮮、および日本の地域における立場に直接的な脅威となるほど急速に台頭する中国に対する日本政府の諜報を改善するために、対外スパイ機関を設置する日本の意図を詳細に明かしている。

日本はまた、潜在的なテロの脅威、イスラム国に処刑された二人の日本人捕虜、湯川陽菜と後藤健二の死によって、ますます切迫している野心に関する情報を収集したいと切望している。

ウィキリークス公開電文によれば、2008年におこなわれた当時のランドール・フォート米・国務省情報研究局長と内閣情報調査研究室の三谷英史・内閣情報官の会話を駐日米国大使館が米国政府に伝えており、三谷氏は「人的情報収集能力」が日本政府にとって優先事項になっていると述べている。

「日本側は知識、経験、スパイ/要員が不足していると理解しているので、この手順が非常に時間をかけて進められるという決定がなされた。新たな要員の訓練過程がすぐにでもスタートする」と、電文に書かれている。

日本は第二次世界大戦後、対外スパイ機関を保持してこなかった。しかし、近年になって、地域における優位な立場が色あせたことから、対外政策と安全保障に対する同国の姿勢がますます前のめりになっている。

安部首相は昨年、日本国憲法第9条、すなわち日本の軍隊が自衛以外の能力を超えて行動することを禁じる、いわゆる「平和条項」の解釈を改訂した。

安部首相は、日本が米国などの同盟国を支援するために軍隊を運用できるようになるべきだと主張した。

日豪間協力も近年になって、やはり強化されている。

1月には、締結まで7年間を要した自由貿易協定が発効しており、それをトニー・アボット首相は、50年来で「もっとも重要な二国間経済協定」であると称した。

またアボット政権は昨年、老朽化したコリンズ級潜水艦に2020年代中ごろから代替するオーストラリアの新規潜水艦を建造するのに、日本が好ましい供給国であると示唆している。

近年になって、台頭する中国への対抗策を日本が追求するにともない、日豪両政府間の防衛協力もまた強化されている。



【クレジット】

原文:http://www.theaustralian.com.au/national-affairs/foreign-affairs/spies-like-us-asis-training-japanese/story-fn59nm2j-1227272245838
読めない場合は、こちらからどうぞ ⇒ https://plus.google.com/u/0/105354765105306904175/posts/3yh5SrGMax4
本稿は、公共・教育目的の日本語訳であり、商業目的の複写・転載・配布を禁じます。

【付録】


警告「核戦争の間際、アメリカ国民は昏睡」 via @totalcollapse

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核戦争の間際、アメリカ国民は昏睡 
2015322

アメリカ生まれで評価の高い作家、エリック・マーゴリス1は、キューバ・ミサイル危機に関して、2012年に「世界を揺るがし――破局の瀬戸際に追いこんだ13日間」2と題する記事を公開した。

キューバ・ミサイル危機3とは、もちろん196210月、ソ連が弾道ミサイルをキューバに持ちこんだ結果、米ソが13日間にわたって対決した事件である。この危機は世界の新聞やテレビで大々的に報じられ、冷戦が核の総力戦争に拡大する瀬戸際に世界を追いこんだ。

1962年に世界が核戦争の間際に追いつめられた戦慄的な状況になっていたことが最終的に周知されたのは、2002年になって、トーマス・ブラントン4(当時、アメリカ国家安全保障アーカイブ5理事長)が「ワシリー・アルキポフという名の男が世界を救った」ことを明らかにしたからである。

ブラントンが言及したソ連海軍のワシリー・アルキポフ6中佐は、キューバ・ミサイル危機のさなか、米海軍空母に対する核魚雷の発射命令を勇敢にも拒否したのである。マーゴリスが2012年の記事で、(米艦ルーズヴェルトに対する核魚雷攻撃によって確定的になっていたはずの)米軍のキューバ侵攻が現実になっていれば、戦域のソ連軍がアメリカの侵攻軍とフロリダ州南部の米軍基地に対して100発の戦術核を使用する権限を付与されていた7と指摘しているので、核魚雷の発射が実行されていたなら、第三次世界大戦の引き金になっていたはずだ。

現在に生きる人間にとって、これらの歴史的事件を知ることの重要性は、あの「世界を揺るがした13日間」が再度われわれの頭上に降りかかっているので…しかも峻厳な「隠された違い」を伴っているので、かつてないほど決定的になっている。

その「隠された違い」とは、あの当時と現在の相違点であり、1962年当時、アメリカ国民は核戦争が勃発するという由々しい危険に自国が直面していると知るのを許されていたが、今日、統治者らによるウソ以外、なにも伝えられていないということである。彼ら米国の施政権者らはとどのつまり、「アメリカ国民がわれわれの醜悪なウソ8を許したので、イラクを侵略できたのであり、いま国民がなにを考えているかは知る必要もない」と信じているのだ。

だが、この考えは真実だろうか? もちろん、不実だ! 真実はもっと単純であり、アメリカ国民がいまの事態を自分で知るのを許されるなら、大衆決起して、「いやだ!」というはずだ。

だが、ここで問題なのは、米国の主流メディアが、政府、銀行、企業のプロパガンダを垂れ流すための右腕になりくだっているので、だれかがアメリカ国民の知己を得て、起こっている事態を警告するにしても、その能力がほとんど完全に破壊されてしまっていることだ。

スノーデン文書が暴露するように、またグレン・グリーンウォルドが20142月に公開した記事9で「スノーデンの保管文書のなかに数々ある、まだ語られていないが、急を要する話しのひとつが、欧米諸国の諜報機関が虚偽と世評破壊を駆使する過激な作戦を用いて、オンライン公論を操作・制御しようと企んでいる状況である」と指摘するように、事態はさらに悪化している。

当局の目的を記し、スノーデンが暴露した米国の政府機関自体の最高機密文書9をひもとくと、当局自体がその目的を、「1)標的の評判を破壊するために、あらゆる種類の虚偽情報をインターネットに入力し、(2)社会科学、その他のテクニックを駆使し、オンライン公論と直接行動を操作して、望ましいと思われる結果を生じさせる9と述べており、政府機関がアメリカ国民に対してなにをしているのか、当局者自身のことばで読み取ることができる。

読者のみなさん、どうか次のように自問していただきたい――「どのような類いの政府が巨万の資金を使って意図的に、国民に真実を語ろうとする人の評価を破壊し、オンライン公論を操作するのだろう?

さらに、「どのような類いの報道機関が、政府が批判もされずに、このように振る舞うのを許しているのだろう?」と自問していただきたい。

これら2問に対するあなたの答は、ただひとつの結論にたどり着くだろう…あなたの政府であり、あなたの主流メディアであって、あなたが敵であると考えなければならない。

それに対して、われわれはあなたを敵とみなさないだけでなく…われわれはあなたがたそれぞれ全員がかけがえのない神の被造物として見ており…あなたがたには、真実を扱う方法を知る資格があるだけでなく、真実と虚偽の違いを知る能力がある。

これこそ、われわれが「プーチン、クリミア進入を軍に命令、NATOに戦争を警告10と題する2014224日付け記事を公開した理由である。

ところがこの記事は、すべてのソルチャ・ファール(Sorcha Faal)報告と同じく、(まさしくスノーデン文書によって断定されているように)米国民が最悪の事態に備えるのに必要な正しい時期を知るのを阻止しようとする米国政府の諜報工作員による攻撃をただちに受けた。

われわれは米国政府や主流メディアと違って、あなたに真実を知る権利があると、いつものように信じた。では、この特定の事例ではどうだろう? さて、プーチン大統領がつい先日の22日、ウクライナの首都、キエフにおける昨年221日・22日の親欧米派暴動を受けて、ロシアが核戦争の準備をしていたと自国民に明かした…われわれは2日後にはあなたに警告していた。

同じように先週末、米国の主流メディアがこぞって、プーチンが退陣させられた、彼のガールフレンドがスイスで出産した、彼は病気で死にそうであるなどと書きたてる記事で、プーチンの「不在」について騒いでいるさい、われわれは「英国が核先制攻撃の準備をしているため、ロシアが『戦争状態』の存在を警告」12という記事を公開し、プーチンが「国防省の保護下」にあると書いた。

プーチンは10日間、国防省の保護を受けたのちの316日、公開の場に再登場し、第二次世界大戦後のロシア史上で最大の軍事戦闘作戦を開始した…われわれはこれを「ロシアが戦争準備、モスクワ防空壕は満員間近13という記事で報告した。

われわれは315日付け記事「オバマがロシアの最高幹部スパイと面会、戦争は抑止不能と警告14で、オバマ大統領がつい先日、ホワイト・ハウスでFSB[ロシア連邦保安庁]長官と面会するなど、米国がEUと違って、制裁リストに掲載していないロシアのスパイ組織幹部2名と過去11か月のあいだに面会していたと伝えた。

さらに319日付け記事「米国の最高幹部司令官、対ロシア核攻撃を拒んで逮捕」15で、オバマから核戦力部隊への発射コードの伝達を任務とする米海軍の最高司令官の逮捕・拘留を伝えた。

さらにまた昨日の320日付け記事「米軍戦車のヨーロッパ大量派遣で、ロシアが国民に『核戦争準備』を警告16で、ロシア政府が全企業と雇用主総員に核戦争準備を命令し、米国がヨーロッパに戦車と装甲車両を大規模配備していた状況を報告した…昨年4月にすべて撤退させたと自画自賛してから、ほんの11か月後のことである。

ご注意いただきたいが、過去1周間におけるわれわれの記事見出しと、1962年キューバ・ミサイル危機のさいのニューヨーク・タイムズの見出しの唯一の違いは、われわれの見出しが、彼らがいま伝えて然るべきものであるという事実だけである…断じて、当方の落ち度ではない!

言い換えれば、ニューヨーク・タイムズとその同類はすべて、あなたが真実を知る必要があるとは、もはや思っていないということ…だが、いまでもわれわれはそう思う!

そして、たった今のことをいえば、米軍とNATOがバルト海沿岸諸国において現代史上で最大の広範囲展開戦争ゲームに興じており、ヨーロッパ東部を縦断する「部隊展開ライン」を形成している17…一方、同時に数千のロシア軍部隊に総力戦警報が発令されており、ロシア軍の核ミサイルが前線に移され、ロシア軍の核戦略爆撃機が空中で待機し、攻撃体制に入っている。

たった今、未知のままである唯一の事実とは、これら2陣営の巨大戦力が戦闘に突入するか否か、それは何時になるのか、だけである。はたして、突入するか否か? 何時なのか? 最初のほんの数分間で核戦争に拡大するので、ご安心のほどを…結局、オバマは2011年にカンサス・シティの大規模核兵器工場の建設18に着手しなかったが、なんにもならなかった!

筆者は、われわれが真実を語りつづけることができると言えたらよかったと思うが、言えない。読者のみなさんの多くがご存知のように、ここ1周間、われわれのサーバーが「デジタル兵器」による攻撃を受けて破壊され、16時間近くオンライン接続不能になった。他のサイトも攻撃され、サーバー破壊を免れたAntiWar.com(反戦ドット・コム)などのサイトは経済的に攻撃された…以下に、同サイトの投稿記事を紹介する――

「当サイトは2015318日付けグーグル・アドセンス通知を受け取り、当サイトの広告がすべて機能不全になったと通告された。なぜか? このページがイラクのアブ・グレイブで米軍部隊が犯した恐怖の虐待行為を暴いたからである。

「このページは開設後11年間、発信しつづけてきた。その全期間、グーグル・アドセンスは当サイトに広告を掲載していた――が、米国政府がイラクにおける再侵略、爆撃、殺戮、さらなる民間人虐待の準備を整えたところで、グーグル・アドセンスは突如として彼らなりの「反暴力」方針を決定し、「不穏なコンテンツ」を禁止、米国政府が下手人になり、経費をあなたの税金でまかなう暴力行為の描写をご法度にしたのである。このページは当サイト史上で3番目にビジター数が多く、開設してからの閲覧者数が200万に達している」19

昨日、この記事が投稿されると、AntiWar.comにとって、状況はさらに奇怪になった――

「更新:この野次馬に関する記事の結果、通信チャンネルが開き、グーグルが当サイトに連絡して、当サイトの広告を修復すると告げた。ところが金曜日の朝、筆者は当サイトからコンテントを撤回するように要求する別の通知を受け取った。グーグルはこのページを削除させなければならないと決定したのである。

「われわれには、グーグルにわれわれの編集方針を指令させる意向はない」19

グーグルがAntiWar.comに削除を要求したのは、次の記事である――

「頭をあげて~米国はウクライナで敗色」20

クリス・アーネスト 2014

米国はウクライナで平和を望んでいない――米国は支配を望んでいない。同地の状況が米国の眼前で吹き飛んでしまったいま、彼らが状況を変えようと目論んで、さらなる不安を煽っていると疑うのは理不尽ではない。20

だから、かいつまんで言えば、民衆側の…われわれのサイトやAntiWar.comのウェブサイトなどは政府および政府を権力の座に据えた企業の両者から攻撃されている。あなたが攻撃側のルールに従って行動しなければ、攻撃側はあなたを破壊し、あなたの評価を破壊し、あなたのサーバーを破壊し、すべて失敗に終わったとしても、あなたの稼ぐ能力も破壊する。

われわれに残されているすべては、あなただ…が、あなたはそこにいらっしゃるのか?

1930年代のこと、ナチス・ドイツのアドルフ・ヒットラー首相は、「大きなウソをつき、何回も口説けば、そのウソは信じられる」と信奉者らに説いた。

世界一の賢人、アルバート・アインシュタインはヒットラーに対抗して、こういった――「世界は悪をなす者たちに破壊されないだろうが、なにもせずに悪を傍観する者たちに破壊されるだろう」。

第二次世界大戦による600万人の死が、ヒットラーとアインシュタインの両者ともに正しかったことを証明した…あまりも多くの人たちがウソを信じてしまったが、同時に、悪の所業を傍観しながら、なにもしなかった。

いまこそ、あなたの出番だ。

【脚注】

1.      Eric Margolis.

3.      Cuban Missile Crisis.

4.      Thomas Blanton.

6.      Vasili Arkhipov.

【付録】

The Man Who Saved The World -- Secrets of The Dead | PBS

完全版リンク 53:08

【関連記事】


アルジャジーラ米国「混迷を深める米海兵隊基地の辺野古移設」

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混迷を深める米海兵隊基地の辺野古移設
Japanese row over US island base move deepens

沖縄県知事が米海兵隊基地の移設計画現場における海中作業の停止を命令

2015323

日本政府と、駐日米軍の大部分を受け入れている沖縄の対立は、県知事が323日、この南の島にある海兵隊基地の移設計画現場における海中作業の停止を命令したのに伴い、激化した。

昨年11月の県知事選挙で反基地保守の翁長雄志氏が当選し、12月の衆議院選挙で与党候補たちが惨敗を喫して以来、安倍晋三首相の政権と沖縄はいつ衝突してもおかしくない動きを見せてきた。

翁長氏は海中調査作業を停止するように沖縄防衛局に指示したと記者会見で語っており、県職員によれば、その作業が現場のサンゴ礁を損傷している恐れがあると沖縄県は見ているという。

翁長氏は、1週間以内に作業を停止しないなら、201212月に前知事が与えた掘削作業認可を取り消すかもしれないと明言した。

普天間基地を人口の少ない沖縄北部地域に移す計画に遅れが出ることになれば、323日に発表した426日から53日にかけての訪米日程を目前に控えて、安部首相の頭痛の種になる可能性がある。

地域における中国の影響力の拡大が懸念されているおりから、バラク・オバマ大統領と首脳会談をおこなうことによって、安倍政権の安全保障政策強化を米国政府が了承していることが浮き彫りになると期待されている。

菅義偉官房長官は記者会見で、防衛省が県知事の文書を精査しているが、この作業は事前に県の了解を得たものであり、県知事がこのような措置をとったという事実そのものが「極めて遺憾」であると語った。その了解は翁長知事の前任者から与えられたものであり、現知事は昨年の選挙で前知事を倒している。

「現時点で作業を中止する理由は認められない」と、菅官房長官は明言した。

米国と日本は1996年、島内の人口密度が高い地域に置かれた普天間海兵隊航空基地の閉鎖に合意した。ところが、移設計画は住民の反対に阻まれて行き詰まり、住民の多くは基地を、騒音、汚染。犯罪と結びつけて考え、日米間安全保障同盟の不公正な負担と思える重圧が課されていると憤慨している。

沖縄は、日本政府の第二次世界大戦敗北から27年後まで日本の施政権下に返還されず、いまだに駐日米軍兵力の75パーセントを受け入れ、米軍基地が県土面積の18パーセントを占めている。

Reuters

【クレジット】

原文:


本稿は、公共・教育目的の日本語訳であり、商業目的の利用を一切禁止します。

日本のカトリック司教団、フランシスコ教皇に原子力に対する警告を要請

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NCR:独立カトリック情報誌 NATIONAL CATHOLIC REPORTER
日本のカトリック司教団、フランシスコ教皇に原子力に対する警告を要請
Japanese bishops ask Francis to warn against nuclear power in his encyclical

大震災6日後の2011317日、震災・津波で損傷した福島第一原子力発電所の空撮写真(CNS/Reuters/Kyodo
ジョシュア・J・マッカウィ Joshua J. McElwee  2015327

日本のカソリック司教たちは、2011年の福島第一原子力発電所の事故による健康への影響に取り組んでおり、フランシスコ教皇に対し、近く発表される環境に関する回勅に原子力の利用に対する警告を書きこむように依頼した。

日本の司教たちはローマの法王庁を訪問したさい、教皇に謁見し、フランシスコがあからさまに原子力を使用禁止にしなくとも、原子力には「命を脅かす非常に深刻な問題がある」と述べるように依頼した。

東京教区補佐司教、ヤコブ幸田和生は日曜日、「わたしたちは日本の原子力発電所に非常に明確に反対しています。わたしたちは、教皇に対し、近く公表される回勅で原子力発電所についてなにか述べるようにご依頼申し上げました」とインタビューで語った。

「教皇が非常に具体的なことばで原子力発電所を名指しにしないということはありえますが、人間のおごりが環境に対して多大な被害をおよぼしてきたのであり、命を脅かす非常に深刻な問題があると発言できるはずです。この文脈で、教皇は原子力発電所に言及できるはずです」と、補佐司教は言い加えた。

幸田はカリタス・ジャパンの担当司教をも務めており、日本のカトリック中央協議会常任司教委員会の委員長を務める東京教区大司教のペトロ岡田武夫も同席した日曜日の合同NCRインタビューで語った。

岡田と幸田は、世界中からやってくる司教団がそれぞれの教区について教皇に報告することを求められる法王庁公式訪問のさいの320日、他の日本人司教たち14名とともに教皇に拝謁した。

インタビューは日本のベリス・メルセス宣教修道女会に所属するシスター・フィロ弘田しずえの助けを借りて、英語と日本語を交えて約1時間おこなわれ、二人の司教は、謁見、フランシスコが教会にもたらそうとしている変革、日本の司教団が第二次世界大戦終結70周年を期して発表した声明について語った。

フランシスコは、環境・生態系の問題を語る回勅――教皇の教えを伝える最高形態の書簡――の執筆に取り組んでいると知られている。

法王庁報道局の副局長、御受難会修道士のチロ・ベネデティニ神父は23日、教皇がその週の予定をすべて解除し、6月か7月に公表されると予想される文書の「最終改定」に集中すると語った。

原子力の使用は日本で、東京から約300キロ北の仙台市の沖合で発生した地震と津波につづいて勃発した2011年のメルトダウン以降、論争の主題になってきた。

事故のあと、国内の原子力発電所は停止されてきたが、安倍晋三首相は、国内に54基ある原子炉のうち、少なくとも3分の1は再稼働したいと発言している。日本の司教たちはその計画に反対し、フクシマ惨事と――地域住民の約270,000人がいまだに仮設住宅暮らしを余儀なくされているという――その余波が、再生可能エネルギーへの移行の必要性を示しているという。

やはりNCRインタビューに加わっていた日本のカトリック中央協議会事務局長、宮下良平神父は、フランシスコが原子力に対する司教団の懸念をお聴きになって「大いに興味をお示しになった」といった。

宮下神父は、「猊下は文明が文明を破壊しうると申されました。男たちと女たちはこれが非常に進んだ文明であると考えていますが、起こったことは文明の破壊です」と語った。

「猊下は人類が文明を構築し、人間のおごりのために、人類は限界を超えて進もうとしているとおっしゃいました」と、宮下神父は語り、フランシスコが現代社会の状況をバベルの塔の物語にたとえられたと言い足した。

「人類はもっと謙虚になり、神のみことばに耳を澄まし、もっと簡素に暮らすべきです」と、岡田大司教は付け加えた。

岡田大司教はフランシスコが教会にもたらした違いについて語り、今回の法王庁訪問は、2000年に東京教区大司教に就任して以降、3回おこなった前回までの訪問とは「大きく違って」いたという。大司教は、これまでの教皇たちは各国の司教たちにひとりずつ謁見することを好んでいたが、フランシスコは一度に司教団全員と同席なさると話した。

「雰囲気はまったく変わってしまいました。教皇はどんなことであれ、やりとりなさることをお望みでした。どんなことを申しあげてもかまわないし、どんなことをお聞きしてもいいのです」と、大司教はいった。

岡田大司教は、フランシスコが特に日本の家族生活の状態についてお聞きになり、日本の司教たちは離婚事例の多さに対して取り組んでいるかとご質問になったと語った。日本の人口が2014年に268,000人減少すると推測されており、教皇は日本の低い出生率に懸念をお示しになったと大司教は話した。

日本のカトリック信徒は総人口のごくわずかを占めるにすぎない少数派なので、教皇は、人口減少の将来展望を抱える国におけるカトリック聖職者の職務を継続する方策について特段の関心を寄せておられると岡田大司教は語った。約12700万人の日本の総人口のうち、推計500,000人だけがカトリック信徒である。

東京教区大司教は、カトリックが国内の少数派であることを踏まえ、大司教自身と同国の他の司教たちが他宗教、とりわけ神道と仏教の人びととの共同事業に努力を集中していると語った。

「キリスト教徒は、とても、とても小さな集団です」と、岡田大司教はいい、他の宗教指導者たちと協力して、社会が直面する「問題の解決に努め、共通の目標をもつように司教たちは努力しています」と語った。

大司教は、宗教指導者たちはとりわけ環境・エコロジー問題に対処するために協力していると話した。

「いかなる宗教の信者であれ、世界全体と人類に影響している、この深刻な問題に関与すべきなのです。これは神学上の議論ではありませんが、地球全体に影響をおよぼす非常に深刻な問題に関与し、懸念を共有することなのです」と、大司教はいった。

岡田大司教はこうつづけた――「わたしたちが、環境問題など、このような非常に人間にかかわる問題に向きあわないなら、他の人たちは、『この人たちはなにをしているのだろう? この人たちは、人類全体、または宇宙全体に影響をおよぼす非常に深刻な問題に真の意味で関心を寄せたり、関与したり、参画したりしていないのだ』と考えるかもしれません」。

大司教は、環境における人間の役割に関するキリスト教徒の理解を語り、「わたしたちは、自然または環境に対するわたしたちの態度において、間違いを犯したのかもしれません」と述べた。

「創世記は、人間が生き物をすべて支配せよと述べています。しかし、わたしたちは神のみ旨のままに支配すべきです。だが、わたしたちは神ではありません」と、岡田大司教はいった。

「わたしたちは自然に対してあまりにも優越的になっています。わたしたちの法王庁訪問のさい、フランシスコ教皇は、人類は、神がわたしたちにお恵みになった自然の善に則ってふるまうべきだとおっしゃいました」と、大司教はつづけた。

東京教区大司教は、日本のカトリック中央協議会が2月に公表した第二次世界大戦後70年司教団メッセージ「平和を実現する人は幸い~今こそ武力によらない平和を」(英語訳文)について詳細に語った。

5項目の声明からなる、このメッセージは、日本の教会が平和のために――わけても、戦後日本の憲法のうち、戦争の放棄を宣言し、日本国政府に軍隊の保持を禁止する条項を擁護するために――働くことを約束している。

その条項、日本国憲法第9条は、近年、とりわけ安倍政権が、他国との集団的自衛協定の締結を日本に許すように、条項解釈の見直しを図っているいま、論争の的になった。

司教協議会のメッセージに、「わたしたち日本司教団が今、日本国憲法の不戦の理念を支持し、尊重するのは当然のことです。戦争放棄は、キリスト者にとってキリストの福音そのものからの要請であり、宗教者としていのちを尊重する立場からの切なる願いであり、人類全体にとっての手放すことのできない理想なのです」と書かれている。

岡田大司教は、日本で憲法に関する有力な考えかたが変わりつつあり、戦時中に日本の軍隊が犯した残虐行為を軽視する傾向が一部の人びとにあると語った。

「たとえば、侵略、植民地主義のわたしたちの歴史、近隣諸国との関係を一新したいという、なんらかの傾向があります。彼らは、これは本当じゃないというのです。一部の人たちは認めるのを拒み、この意見がますます大きくなっています」と、大司教は話した。

「(日本の司教たちには)状況を変えるだけの力がありません。しかし、わたしたちはこれについて発言すべきであり、わたしたちは、なにか、なにか新しいものを生みだせるかもしれません」と、大司教はいう。

日本の司教協議会の全面的な戦争放棄が、バチカンの教えに、そしていわゆる正しい戦争基準に則った戦争の使用をいまだに許容している他国の司教協議会の方針にどのように適合するか質問すると、幸田補佐司教は、日本の協議会がヨハネ23世教皇による1963年の「地には平和を」回勅に立ち返っていると述べた。

その回勅に、核兵器の時代において、「正義侵害を修復するための適正な道具として戦争を維持することは、もはや無意味である」と述べられている。

幸田補佐司教はまた、第2バチカン公会議の文書「歓喜と希望」に言及し、ヨハネ・パウロ2世教皇が1981年に長崎を訪問したさい、「イデオロギー、野望、要求の衝突は、戦争と暴力以外の手段で解決し、解消しうるし、そうする必要があります」と述べたことばを引用した。

イスラム国集団が大勢のキリスト教徒を殺害した中東における武力行使を考慮している法王庁外交官らに対して、日本の教会がどのように助言するのか、特に質問すると、幸田補佐司教は、「対話がほとんど不可能である状況があります」と述べた。

補佐司教はこうつづけた――「だが、同時にわたしたちは、暴力が平和をもたらすとは決して考えていません。わたしたちは暴力を信じていません。それは不可能です」。

【記者】

ジョシュア・J・マッカウィJoshua J. McElwee は、NCRバチカン通信員。
E-mail: jmcelwee@ncronline.org. Twitter: @joshjmac.

NCR記事キーワード】


台湾ニュース「台湾の輸入業者、日本の輸出業者による食品の産地偽装を非難」

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台湾ニュース Taiwan News

台湾の輸入業者、フクシマ産食品の産地偽装を非難

台湾行政当局は輸入禁止の撤回を考慮中と認める

マシュー・ストロング Matthew Strong 台湾ニュース記者

2015325

【台北/台湾ニュース】台湾の輸入業者と流通業者は325日、輸入した食品の産地が2011年フクシマ核惨事に被災した日本の5県であることを突き止め、日本の輸出業者を非難し、論議を呼んでいる。

一方、衛生福利部は、放射能で汚染された可能性のある地域の産品に対する輸入禁止を解除してほしいという日本の要請を考慮していると認めた。

324日、いくつかの行政区における衛生検査の結果、293品目の食品が福島、茨城、群馬、千葉、栃木各県の産品であると判明しており、これらすべては台湾の輸入禁止の対象である。ところが、食品ラベルの原産地表示が東京やその他の地名に書き換えられていた。

2011311日の津波・核惨事の余波で放射能の影響を受けた可能性のある産品は、インスタント麺類や醤油から茶やチョコレートまで広範におよび、台湾の最大手スーパーマーケットやデパートの一部で販売されている。

影響をこうむった台湾の輸入業者のうち、少なくとも3業者が日本の5県の産品に対する政府による輸入禁止を尊重してきたといった。ラベルは日本の輸出業者が用意し、台湾の消費者のために日本語から中国語に翻訳されているが、輸入業者はなにも改変していないという。

輸入各社は、327日中に疑いのある産品をすべて売り場の棚から撤去しなければならないという政府の要求に協力すると語った。

問題の283品目のうち、193品目が検査を受け、いかなるレベルの放射能も検出されなかったと食品薬物管理署はいい、禁止は禁止であり、該当する産品は台湾に輸入されてはならないと言い加えた。

輸入禁止を侵犯する者は、30,000台湾ドル(115,000円)から300万台湾ドル(1150万円)の罰金を課せられると報告はいう。



台北時報「民主進歩党、日本産食品違法輸入の薬物管理署による隠蔽を告発」

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201543日 金曜日 

民主進歩党、日本産食品違法輸入の食品薬物管理署による隠蔽を告発

ロア・ロクシン Loa Iok-sin 専属記者


台北で42日に開かれた記者会見で報道陣に語る民主進歩党(DPP)立法委員、リウ・チエンクオ(右)とヤン・クオ。DPPは、日本からの放射能汚染食品の違法輸入を隠蔽したとして食品薬物管理署を告発した。

Photo: Liu Hsin-de, Taipei Times

民主進歩党(DPP)立法委員たちは昨日、食品薬物管理署(FDA)の隠蔽を告発し、当局の上層部職員らに却下された放射能汚染食品の違法輸入に関する6件の公式報告書を示した。

DPP立法委員のリウ・チエンクオ(劉建國)が、「コ(柯)という名のFDA技官が34日以降、上司のフアン・ミンクン(黃明坤)とともに、放射性汚染物質に冒される恐れのある日本の各地から違法に輸入されたらしい食品を記載した6件の報告を提出していました」と、同党の委員、ヤン・ヤオ(楊曜)と共同で開いた記者会見で語った。

「ところが、署内上層部の職員らがその報告をすべて却下したのです。そのため、わたしたちとしては、FDAが故意に問題の隠蔽を図り、国民の食品の安全性を危うくしたのではないかと考えるのです」と、リウはいう。

台湾は、2011年に勃発した福島第一原子力発電所の核惨事以来、福島、群馬、茨城、栃木、千葉各県など、周辺地域からの食品輸入を禁止している。

公文書によれば、コは6件の――34日、10日、16日、17日、18日付け――報告を提出し、上層部職員らに上げる前に、フアンが承認した。

コは報告書で、貿易会社が食品を5県から違法に輸入していたと記し、FDAが同社の輸入免許を取り消し、商品のリコールを発令するように要請していた。

ところが報告は、最終的に6度目の試みで同署の地域管理局のフン・ユンラン(馮潤蘭)局長に届くまでに、同局の上席技官、ワン・チャンイ(王貞懿)に4度、副局長、ワン・テユエン(王德員)に1度、却下されていた。

フン局長は報告を承認しながら、放置し、腰を上げなかった。

リウは公文書を指さしながら、管理官らはこれを却下するさい、「証拠はあるか」、「だからどうした」などと書き込みやコメントを残しさえしているといった。

317日には、署名をしなかった職員が、『無効』と『破壊』のことばに丸印を付け、この2項目は『矛盾する』という書き込みを残しています」と、リウは述べた。

「おそらく、技官は(FDAが)会社の輸入免許を『無効』にし、すでに店の棚に並んでいる商品を『破壊』するように奨めていたのでしょう。書き込みを残した職員になにが問題だったのか、わたしにはわかりません」と、立法委員は語った。

さらにまた、違法輸入が暴露されたあと、罰せられたのはフアンだった。

「だが、彼(フアン)は問題を見つけ出し、報告を上司に上げた本人だったのです。彼がどんな間違いを犯したのでしょう?」と、リウは問いかける。

【関連記事】

201541日水曜日

カナダの話題「絶滅危惧種のイルカ、原油積出港プロジェクトを葬る」

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絶滅危惧種のイルカ、原油積出港プロジェクトを葬る

メリッサ・クローニンMelissa Cronin 201542

絶滅危惧種のイルカ、ベルーガの個体群が環境災害の発生を食い止めた。

トランスカナダ社は41日、95億ドルをかけるエナージー・イースト・パイプライン・プロジェクトの一環、ケベックのスーパータンカー原油輸出ターミナル開発計画の撤回を発表したとラ・プレス紙が伝えた(ロイター配信)。

「これは、わたしたちのセント・ローレンス川に生息するベルーガの保護と存続にとって、すばらしい勝利です」と、カナダの政治家でジャーナリスト、バーナード・ドレインヴィルは記者会見で述べた。

Shutterstock
トランスカナダ社は昨年12月にセント・ローレンス川現地の開発の休止を公表していたが、今回、この地域におけるプロジェクト全体が破棄された。
この動きの背後にいる動物は、鮮やかに白い皮膚と球根状に丸い頭で有名な亜北極帯のクジラ目、ベルーガ・イルカである。カナダ絶滅危惧野生生物地位委員会は昨年12月、セント・ローレンス川のベルーガ生息数がほんの1000頭内外で推移していると発表し、この個体群を絶滅危惧種に指定すべきであると勧告していた。かつてこの群の個体数は10,000頭ほどだったが、歴史的には乱獲にため、現在は汚染のため、減少してきた。

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1日あたり1100万バレルの原油をケベック港経由で送り出すはずだったトランスカナダ社のプロジェクトは、油漏れ、水運の騒音、汚染のため、この脆弱な個体群を脅かすはずだった。カナダの新しい法律は、絶滅危惧生物種の命運を握る生息域を企業が破壊することを禁じており、これがトランスカナダ社に退場を余儀なくさせたのかもしれない。
だが、野生生物のための戦いは終わっていない。かつてブルームバーグが「ステロイドの要」と呼んだエナージー・イースト・パイプラインの開発は進み、その進路の動物たちを追いやっている。パイプラインはやはり1100万バレルの原油を送りだして、北米最長の経路を突っ走らせ、生物生息域を破壊し、周辺の野生生物に油漏れをお見舞いする脅威になるだろう。



メリッサ・クローニンはThe Dodo記者。
Twitter @melissa_cronin. Email: melissa@thedodo.com.

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